福田敏一『方法としての考古学』雄山閣

 一年前読み掛け時のノートがでてきたので、それを鑑みまた書いてみる。
 そもそも平安博物館突入(いわゆる考古闘争)時、時流に背を向ける旨の声明を堂々と公表した日本考古学の措置を省みず、下記の論文が発表されたのを目にし、そのうえ日本考古学御本尊が、近年、社団法人化まで目論んでいることを知ったのち、本書に接した、というシチュエーションにあったことを忘れていた。(しかもフタを開けたら「0円会社」と肩を並べるとは。なんなわけ???)

  • 黒尾和久2002「博物館と考古学(Ⅰ) -学史研究における歴史認識の空洞化をめぐって-」『 博物館問題研究』第28号、pp.8-19

 かさねていうが、黒尾も柳澤、勅使河原も、
ただの英雄史観のトリコ仕掛けのあけくれです。ので。ぜひ。
 勅使河原は置いといて、山内清男や和島誠一を持ちあげ、杉原荘介や後藤守一を批判する態度は、いずれも「考古学は管理できる」という欲望のもとに胚胎する二者がいがみ合っている図式をでっち上げているだけのことである。4人の意図はそっちのけである。全く反対側から穿った見方をしたものからすれば、それは露骨である。


 柳澤や黒尾が面罵する東京考古学会−日本考古学協会も、この対極にいた民主主義科学者同盟も、学問を支配しようとして組織された点では同質なのである。後者は後に魔女裁判の内紛によって瓦解し、前者は捏造事件に翻弄されたことによって管理の内実の欠けた現状を露呈させた。
 私見では、学問が統制・支配から自由であった点では柳澤や黒尾の妄想とは離れたところにあったものの近年の同様によって、またもやあの管理への妄念うずまく「擬」科学が頭をもたげてきて、方法論が貧困な研究者がこれを容認する一方向が生起してきたいて、このことに危機感をもつ。
と、1年5ヶ月前のpoliはメモしていた。すごい鼻息だあね。(魔女裁判の内紛て、なんだよ、魔女裁判など内紛が生じ、とかそんなだろ)
 太字で示した欲望こそ、poliが常々激昂する、「一方の制度を否定しておきながらまた別種の制度をおしつける」あの身振りである。激昂する理由は、上のメモに即すれば、方法論が貧困だからであろう。現在考え直してみる、というより貧困なのではなく、あっても忘れているのだろう。
 目下の考古学史にて語られるべきは、

  • 「統制」の時世から解放されたのちも「統制」の欲望を続行した戦後の日本考古学が、どのような過程を経て現状に至ったのか
  • その「統制」を「痛ましい戦争の記憶」なるコピーで読み替え、これをいいわけに戦前までの成果を遺棄した戦後の日本考古学は、どのような過程を経て方法論を貧困化させていったのか

ということであろう。