市野川容孝「法/権利の救出 ベンヤミン再読」『現代思想』2006年6月号特集アガンペンpp.120-135


「殺害可能」ということでアガンペンが含意しているのは、確かに一つには「殺害が処罰されない」ということだ(『ホモ・サケル』邦訳一〇六頁)。つまり、殺してもよいという是認が殺害可能ということの一つの意味である。しかし、「殺害が処罰されない」という言い方は、通常の法/権利の言語においては、矛盾以外の何ものでもない。なぜなら、殺害という行為を処罰するものこそが、通常の法/権利だからであり、殺害を処罰しないならば、それはもはや法/権利と言うべきではないからである。法/権利の言語において可能なのは、「殺害は処罰される」という命題か、もしくはその対偶命題「処罰されないものは殺害ではない」のどちらかであり、処罰されないものを「殺害」と表現することはできない。通常は(この3文字に著者傍点)、である。
 「通常は、である」が市野川の留意が効いている。通常は有効だが、以上においては無効である。つまりあくまでも現行の通常では法/権利の言語は有効であることを協調している。この点では、近頃アガンペンにはまっているような、ヤケクソどもとは違って賢明な言説である。、、と、クサ混じりはそれくらいにして。
 この引用のうち、引用者が、太字で示した言辞は、特定の思考を示している。罪刑法定主義である。奇しくもこの意見を表明したのは、アガンペンと同じイタリアの法学者にして経済学者チェーザレ・ベッカリーアであり、三〇〇年前に匿名で公表された。
 これは、トマス・ホッブスによって「妄想」されたリヴァイアサンに挑んだ一知見であることが意義深い。なぜなら、上のアガンペンの表明こそ、例外状態なる同質な化け物に挑んだものであるからである。アガンペン自身が例外状態をシュミットから出発していると近頃のアガンペン読みは繰り返すが、本当かぁ?アガンペン本人は、ホッブスまで遡っているのではないか?
 、、ともあれ、捉えがたい化け物を制御すべく罪刑法定主義が提出され、アウシュビッツの例外状態という形で化け物がまた別の面を見せたことで、ホモ・サケルの現状認識が提出されたということになろうか?
(【2006/08/12後記】:見ての通り、ここに誤読が存在する。リヴァイアサン=国家とホッブスは、定義しているのであって、自然状態を化け物といっているわけではない。所見時、「国家の何処が化け物だ?化け物の脅威から形成した化け物のハリボテだろ」と腑に落ちずにいた。自然状態に跋扈するヒトをオオカミのような「獣の群れ」と例えた意図が見えなかったのだ。しかし、その暗喩が意義深いものであったということを、とある書で気づくこととなった。近日カキコ予定。。なお、「化けもの」を「捉えがたく制御し難きもの」という捉え方で、それを制御する手だてを探る系譜として、ホッブス〜アガンペンを示した、とこの文脈は介して頂きたい。ああ、かっこわる)

 後者は、現行の文化経済学の知の源泉が、ラスキン、モリスたちだけに一日の長があるわけでないことを表す。そして近年のクリエイティブ・コモンズの動向をベッカリーアがみたとき、果たしてどのような評価を下すのか。とてもpoli個人が勝手に興味深い。