吉田憲司2003「「フォーラム」を睥睨するのは誰か」『あいだ』97号『あいだ』の会

 ここで炎上ひとりなダメpoli(なんか掟ポルシェみたいな響きだあね、まいいか)全開であったが、取り乱した理由は、上2者のうち、応答である後者の在り方にみる近頃散見する共通した姿勢にある。もちろんあの場はこれとは違う対象だけどね。
 制度が他の制度をでっち上げ叩きにかかって自身の優位をアピールする。極めて明白な政治的な行為である。
 学芸員にとって制度の導入が必要悪であるというなら、これによって研究者としての学芸員自身が向き合い、他者(=来館者)に自ら感知した像を発信すべき事象(=展示物, 調査・研究対象)が不当にも等閑視される危惧をそんな在りもしない仮想敵(=他の制度)に捏造して攻撃する身振りをする、などというのを応答に代えるような作法を生み出すなど、必要悪を越権した傲慢であろう。
 しかし公共施設の指定管理者制度というものが、博物館を調査研究機関としての機能を棄却し普及施設としての機能にとどめるまさにただの小屋とする大義名分を与えることを許してしまっている。そう、学芸員は、研究者としての職能ではなく、ただの興行主あるいはそのサイドのスタッフということとなる。現に上の吉田氏の態度は演者へのクレームを退けるスタッフのそれにふさわしい。このような不健全な態度も、今後はその大義名分のもと、「健全だ」とうそぶくこともできるということになろう。やっぱ世間はせちがらくもくそったれだ。
 こういうくそったれな状況はイカンと思うなら、傲慢な態度を捨てて、なぜ睥睨するなどという指摘を受けたのかを考えるべきではないだろうか。ダンカン・キャメロンの「フォーラム」と「神殿」のダイコトミーに抹つまでもなく、「神殿」と決めつけられたのは「フォーラム」にないものが「神殿」にあるからだ。それが、冒頭に示したような、他者に制度に拠る彼らの語法であることはいうまでもない。
 背理の背理としてのコテの発想と、持論の裡での再帰する発想。後者の応答の前提にはこれがあまりにも足らないのである。
 な〜んて言っても、イカンなんて思わなくてコーツゴーだと思っているのだろうな。あ〜あ。いやだいやだ