大澤真幸・金子勝2002.4『見たくない思想的現実を見る』岩波書店

まず、『虚構の時代の果て』から。


オウムは少なくとも八〇年代末期以降の社会を席巻した思想やサブカルチャーのパロディである。たとえば、彼らのハルマゲドン思想は、八九年以降しばしば語られてきた、「歴史の終焉」をめぐる思想の戯画のようなものである。確かにオウムの思想や実践には、どうしようもない「くだらなさ」がある。これを嘲笑するのはあまりにもたやすい。だが、こういった「くだらなさ」が、とりたてて特殊ではない多くの人の行動を捉えてしまった根拠にまで遡航するならば、オウムそのものと、それがまさにパロディになっている。
(pp.298)
と、いう大澤は、『見たくない思想的現実を見る』にて金子勝の提案に乗ったことにより、以下のようにその自らの視点を見つめ直す機会を得る。

ラディカルであろうとすると、概して人は、批判的に―あるいはむしろ否定的に―なる。ラディカルであるとは、徹底して根拠にまで立ち帰ろうとする意志である。根拠にまで辿りついた視点から捉えると、たいていのせんたくしは不十分なものに見えてくる。それらはせいぜい暫定的で対症療法的な解決策に留まっているように見えてくるのだ。かくして、どのような提案に対しても否定的であることと、ラディカルであることとが、ほぼ同じことにになる。
 だが、否定的なスタンスを取り続けることで何かを主張し、また何かを為したことになる、と見なし得る段階は、今や確実に終わりつつある。(中略)必要なことは、ラディカルであることと肯定的な構想力をもつこととを、つまり徹底的に批判的であることと何らかの可能的未来への積極的な展望を有することとを、両立することである。
 そのためにこそ、<現実>を見る必要があった。<現実>を見ることが、否定するラディカルな批判精神と肯定する構想力とを溶接させる、触媒として作用するからだ。それはどのような意味か?(pp.259)
 どうやら、彼の「くだらない」「見たくない」ものをみる本質は、同時代の変動への彼自身の対応であったようだ。しかしこの直後、認識論からでもこの変動に対抗できる可能性も捨てていないことを主張する。揺れているらしい。これを経て、以下の述懐へ。

 それならば、何のために現場に行って、<現実>を直接に見たのか?それこそが―ほとんどそれのみが―、ある<可能性>を、未来に構想された<可能性>を肯定し断定する力を与えてくれるからなのだ。分かりやすく言えば、<現実>を見なければ、「そこまでは言い切れなかっただろう」ということが、<現実>を通過することで書き得た、ということである。
(pp.261)
 大澤にとって、現実は「くだらない」もの、「みたくない」ものが含有する他者であるという結論に達する。なんだのかんだのクヨクヨ考える自己などお構いなしに、独立してそこにある存在、ということである。
良きにつけ、悪しきにつけである。
 私は、あの午前中の発表を聴いているときも、過日id:polieco_arche:20060426にネタなんだよと書いたときも、そして今回バカ!と本気で叱られたときも、この大澤が突き進んで著した2著がよぎるのである。