坂本賢三2006.6『「分ける」こと「わかる」こと』講談社学術文庫

 ようやく、復刊された。随分骨を折らせてくれたものである。この本に浪人中に気づき大学のまる4年間神田に当たりながらみることもなく、大学図書館にも、比較的古くからの蔵書もある地元の図書館にもなく、就職して数年してふらっと某市にある古本屋でみつけることができた。で、立て続けに『機械の現象学』(岩波書店)も同じ某市の別の古本屋で入手。
 科学史、特に基礎科学と工学の振幅ということを焦点にテクストを紡ぐのがこの人の特徴である。デカルトとカントら観念論の狭間で出来してくる機械論も、この焦点に現前してくるという見立てである。
 本書では、分類するという行為を認識し、これを伝える形で理解するというのを目的としている。自らの脳裏で先の二者をたゆたう動きが認識から理解を表象したコトバに至る過程を解き明かすことに反映されている、というわけだ。
 理解を他者に示すということを坂本自身がどう捉えていたか。別の著作で以下のようなことを述べている。


十九世紀には天体力学で微分方程式を解いて多くの補正項が出ると、たとえば第一項は太陽の影響による摂動、第二の項は太陽と月の重なったものの影響、第三項はどれかの惑星の影響という風に意味づけができた。しかしいまはコンピュータで計算するので一つ一つの項の意味づけができなくなってしまった(中山茂氏の話による)。量的な答を求めるだけなら、そのほうが計算は速いし正確なのであるが、しかし式の意味は失われているのである。このような例は枚挙にいとまがない。ここでいいたいのは、科学者が解釈問題を避けて通ろうとしていることである。「意味は何か」と問えば、「それは解釈問題だから」と言ってまるで物理学の問題ではないかのように逃げてしまう。そしてただの実験操作と計算の操作に終始するのは、たしかに機械論と行きつくところであるとは思うが、それが科学の本来のあり方だとはどうしても思えないのである。
 だから機械論的科学に対しては、意味づけをきちんとしてくれることを期待する。(pp.178-179)
 つまり、認識した時点で満足してそれでおしまいではなく、その認識の理解を示す=意味づけの作業に至ってはじめて科学本来の在り方に行きつくというのが彼の見解ということになろうか。
 ちなみに、『機械の現象学』では、逆に理解の表出として示されたコトバから、認識へと遡及することを試みている。テクスト=機械,コトバ=部品というアレゴリー、基礎科学と工学の振り子という坂本の道具立てを遺憾なく発揮された著作といえる。
 考古学において、分類するというのは例えば型式学的方法を下支えする行為である。しかしこの下支えを意識せずに型式学的方法を学ぼうとすれば、ただの座学の域を出ず、自分の思考に反映されることはない。座学のレベルではどうしても分類するということが見えないまま、「のどが渇く」のである。大学時代、畏敬する助教授(現教授)が中尾佐助池田清彦の著作を学生に読ませるために、それとなく研究室の書架に入れていたことをよく思い出すし、[id:polieco_arche:20060614]の知人は、一貫して池田清彦の著作を読んでいるようである。しかしわたしにはどうにも、中尾は抽象化の高みから降りてきてくれないし、池田は社会化に至ろうとする気満々な反面、どうにも先の坂本の危惧する側の人間に思えた。poliは、あの基礎科学と工学の振り子をたゆたう坂本の分類観に惹かれたのである。