VOL 01 以文社

 01という連番を振っている以上、雑誌化させていくつもりなのか?
Positive01みたいなことになるのだろうか。ま、いいか。
 運動な人びとの紡いだテクストである。が、それにしてはとても清潔すぎやしないか。ちっともアジアジな感じがしない。
 さ、イジリはこのくらいにして。先日、ブキャナン、タロックら公共選択学派の書籍をあげた。本書で松本潤一郎によってこの学派への疑義が表明されている。何をいっているのだ???この人は?
 あ、そういうことか。田崎英明がポリスをモチーフとするアレントの公共空間観についてふれているのにかこつけて、公共選択学派批判へとコトバを強引につなげたわけね。でもこの二者は別個の思考だあね。
 公共選択学派は、アレントを踏まえたことはないし、彼らが立脚点におく憲法はポリツァイではなく、「国民」が自らこれを遵守しますと提出した誓約とみていて、誓約を守るために実定法が派生されていくという法体系を前提においている。つまり憲法を提出した先である国家の枠内での思考とならざるを得ない。


 見落としてはならないことは、80年代以降、こうした公共選択的な感覚の浸透と同時に、「政治的なもの(le politique)」という概念が流行したことです。この変更関係のなかで、「政治的なもの(le politique)」は、公共選択論的なポリスの感性的な支配の秩序に取り込まれて、一定の枠組のなかでの合意形成だけが可能かつ現実的な振る舞いなのだ、という雰囲気が蔓延してしまった。だから、ネオリベ批判なんかやってもしょうがないという人たちは、80年代的なんだろうし、現に天皇制であれコミュニティであれ、いわば公共選択論的な枠組をポリスの秩序として前提して、その内部での調整だけが可能かつ現実的なんだ、という立場をとる。本人たちは「成熟」していると思っているのだろうけど、実のところ80年代なポストモダン気分をひきずりながら、元政府税調会長の加藤寛と同じように考えているわけです。だから「抵抗線」を見出すことができない。でも、そうした公共選択的な拘束はたんなる思いこみにすぎないし、じっさいに「抵抗線」はいたるところで発生している。われわれはポリスの表象やコミュニケーションからこぼれ落ちるような不純なる生を生きているし、そのことを肯定したうえでどんどん要求を出し続けていくことが必要なんだと思う。(pp.12)
でたな、遅れてきたい○うせい○う!!
『ノーライフキ○グ』で読書感想文を提出しようとした当時のpoliは生き恥君だ!!
 80年代ハチジューネンダイってうるせえな、ったく。少なくともそれを知らない世代には甚だ不親切な発言。80年代=ポストモダンなんて、何決定しちまってんだよ。
 何よりも胡散臭いのは、先に示したような憲法観を反映する絵解きはない。当の公共選択学派の方は、最後の一文に於ける行動を究極的には誓約の補足修正を意図する、憲法の改正という選択も射程に入れているのではないだろうか。
 それと、そもそも、
可能かつ現実的な振る舞いなのだ、なんて言ったの誰だ
あとさ、
本人たちは「成熟」しているって、どういう状態をいっているんだ?解脱???ほぉ〜
あんたの妄想だろ。なんで、あなたがたがそうやってすぐ在りもしない敵を作るかね。おまけにまたヘンなターム。「政治的なもの(le politique)」何?今度はアガンペン?それとも言い出しっぺのK.シュミット?いずれにせよ、ここまでくると鵺やキメラのたぐいか何かに立ち向かってるっすか??
 ここでpoliに冷水がビャッ
 ま、松本やブキャナン、タロックでは思考する立脚点、というかルールが違うのかと。前者は後者の前提とする誓約先である国家を否定する立場なわけだし。気にくわないのは国家に依存しているようにみえるからだ、って素直にいえばいいのにねぇ。
 他にも田崎英明は、アダムスミスの問題系に基づいて他人の快楽を奪うためには何をやってもいいという理屈になる、とか言ってるし。
そんな単純なら、杉村廣蔵や小泉信三白田秀彰だのがあんな苦労するかぁ、グルァァ!!
やっぱ、沸騰すらあ〜
 なんで、こんないい加減な経済学の引用をするのかね、この人達は。
 稲葉振一郎によるネグリへの批判にあるように、このテの人たちの世界共通の要素ということなのかいな???
 だいたい、〝問題系〟だの、公共選択〝的〟だの、予防線張りすぎだろ。何がいいたいのか分からなくなるぞ、そんなんじゃ。