エリック・ホッファー『大衆運動』紀伊国屋書店


あらゆる大衆運動は、同じ型の人びとからその支持者を引き抜き、同じ型の心の興味をひくので、当然つぎのような結果となる。(a)あらゆる大衆運動は競争しており、一方が支持者を増すことは、それ以外のすべての運動の損失となる。(b)あらゆる大衆運動間には交流がある。一つの大衆運動たやすく他の運動に変化する。宗教運動は、社会革命にも民族運動にも発展する可能性がある。逆に
社会革命は、戦闘的な民族主義にも宗教運動にもなり、また、民族主義運動は、社会革命にも宗教運動にもなる。(pp.20)

活動的な大衆運動は、深くかつ他方面にわたって創造的過程を妨害する。すなわち(1)活動的な大衆運動がひきおこす熱情は、運動がなければ創造的な仕事に注がれていたであろう精力を枯渇させる、熱情は、ろうひと同じ影響を創造性に与える。(2)熱情は、創造的活動を運動の前進に従属させる。文学や芸術や科学は、宣伝的でなければいけないし、また「実際的」でなければならない。忠実な信者である著述家、芸術家あるいは科学者は、彼自身を表現しみずからの魂を救いあるいは心理と美を発見するために想像するのではない。(3)大衆運動が広大な活動分野(たとえば戦争、植民、工業化)を開拓するところでは、創造的な精力は普通以上に消耗する。(4)熱狂的な精神状態は、それだけであらゆる形態の創造的活動を窒息する可能性がある。狂信者は現在を軽蔑するあまり、人生の複雑さと独自性にたいして盲目になる。(pp.177-178)
 先行者の限界は、常に運動の中にいることを好むが故、結論に留まることができない。つまり他者にその主張を伝えようにもその時点の言説に過ぎず一定しない。大衆運動というものが、そもそも異なる運動とも得ようとするものが同じだけで大同団結しやすい。であるが故に小異がその主張の構築を妨害するし、上の引用にあるようにそれぞれの目的がコロコロを顔をのぞかせ、他者に実体をつかませないのである。
 引用の後の方は、やや厳しい気がするが、確かに保存運動も運動というヒトの活動が残ることを主眼ではない。埋蔵文化財が残ることが主眼である。にもかかわらず、その結末は、ヒトの活動が残るだけで、残るべきものは概してその影に没する。
 本書はこういった状況を生む大衆運動の諸要素を多面的に分析する。エリック・ホッファーは、沖中仕の哲学者というコピーばかりが一人歩きしているが、その主著である本書は、我々にとって、先行者たちが運動成就の後、停滞するという現象をどう後出者は引き継いでいくか。このことを考える上で先行者の錦の御旗の下はどういうことになっているのかという切り込み方を考えるうえで有効な書であると考え、手にとったのである。
 上に示したように、変化を求めることは進歩であるが、遺跡を守るというのは、対外的な行動であり自己満足の活動ではない。そこのところの折り合いを付けることを欠く以上、いつまでも錦の御旗もないだろう。官軍も結局政府を開くためにいつまでもそそり立てることはなく、錦の御旗を納めたではないか。(そして内部抗争を続行したわけであるが)
 ちなみに、先に示した書の著者のほうは、生前野尻湖の市民発掘に注目していた。事前に1〜2年は勉強会を行った上で、調査の方針を固めてから調査に入る。成果は、会報を発行し近隣にも配布するのだという。後者は、この活動における先行者の他者との折り合いの付け方のひとつといえる。
 面白い事実がある。エリック・ホッファーの紹介者はこの訳者の高根正昭とあの柄谷行人である。片や運動から離れ洋行し、片や運動に執着し断続的に運動家を開業することがある。高根は半ばにして世を去ったが、果たして柄谷はこのホッファーの大衆運動の予定調和の指摘を受けた態度が取れているといえるのだろうか。そうみるには困難ではないだろうか。では一体何を読んだのか。