M.フーコー2006『知の考古学』河出書房新社

 ドゥルーズがその著書『フーコー』(河出文庫 2007)にて、『性の歴史』(これあれそれね)理解への導きの糸としているのが、本書である。
 本書は、この前作『言葉と物』への読者の熱烈なPardon??に応えてというか、連中があんまりコーゾ〜こ〜ぞーいうもんでかんでふくんでテキスト化したものとみられる。その目論みを、「こ〜ぞ〜シュギにあまりにムキになって否定して失敗」だの「前作の売れ行きに気をよくして書いたら、シッパイ」だのと、またエライ紹介をされた、かわいそうな書でもある。だが、それは違う。
 いみじくも先にふれたドゥルーズがいうように、これ抜きで『性の歴史』執筆計画上の途中転換の謎にむかったとしても、???だらけではないだろうか。なぜなら、転換直前の時点まで保持してきた視座があるとすれば、本書に示されたもの自体がそれだったのだから。
 彼自身が失敗としたとどっかで言っていたとしても、そのかんでふくむ塩梅が、まだまだぁぁぁぁ!!ということだったと、そう思われてならない。
 poliにとって、痛切に伝わってくるのは、


オレ、ボケたいんだょっ!!
三村マサカズ(某日。有田哲平ら後輩芸人からのつるし上げに対して。)
あ、引用間違えた。。。



いや、そうでもない。

 フーコーは、連関を看取できても、連続という特定の規則がからむものへと短絡するとはいいがたいことを何度となく強調している。
本書のフーコーからは、歴史といえば連続性を旨とする、といったようなフレーム問題をはらんでいるという現状認識に基づき、それとは対置されるような非連続性、切断、限界、そして近似する閾、系、そして変換、といったものを介して、そのフレームから脱却しようという意図が、少なくとも読み取れるのである。

あ。ちなみに。。


「その昔、たまたま店頭で見かけたM.フーコーMichel Foucault)の名著『知の考古学』を買って、損をしたと憤慨していた考古学専攻生を思い出す。」(421.)

私も昔、そんなことを記していた考古学の大先生がいたことを思い出した。

「【引用者略】私は今でもフーコーのこの著書が「考古学」の書架におさめられていてもかまわないし、ある意味においては妥当であり、望ましい事であるとさえも思っている。」(422.)
海の向こうの人達も同様に考えているであろうことは、明白である。
【引用者略】
「日本考古学」は、今まであまりにも「考古社会学」(社会考古学にあらず)あるいは「考古政治学」(政治考古学にあらず)に対して、ナイーブに過ぎたと言えよう。
(伊皿木さんのブログより)

 これからみても、上のようなヘタをこくこともあり得るpoliではあるが、せんせ〜のおかげで、本書に対してかようなchoiceをはたらくことを免れた。

ありがとぉぉぉぉ〜小阪せんせ〜。

 ただ。アルケオロジーとア―ケオロジーとの間の取り方は、poliも同感でございう〜む。何様じゃろかpoli。なんせ性急にもこんなことや、ふ〜んなことを言い放ちました手前、尚更でございます〜〜〜〜