poliにとっての笑うということ


十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。私が、あらかじめ印(しるし)をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。やつてゐやがる、と思つた。人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐(おびひも)といて笑ふといつたやうな感じである。諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。
太宰治『富嶽百景』(青空文庫)より。太字強調は引用者
そんなもんで"慶祝"などと判断する太宰の思いこみも考えものだが、太字強調したような不意打ちされたときのこういう感覚に共感する。特にヒト、ブツと面しているときはこういう事態によく陥る。そして笑っているpoliに向かってオヤオヤとした態度を呈する者もいれば、
何がおかしい!!うわ〜い、どしたんだぁ〜い
とキレる者もいる。、、、、疲れる。そしてだいたい上の挿話を思い浮かべる。ま、共有せぇ言うのがムリというものかもしれないが、後者に対し無性に思うのは、
そんなに嘲笑ばかり受けてきたのか?アンタの世間サマはどんだけ荒んでんだよ
ということである。