いや、その『黒い十人の女』。とて。
言語活動の直接性の危うさと間接性の到達不可能性のもどかしさが混沌としてるでね〜の。
風松吉は、媒体物をコトバだけでなく、他の9人をも用いてフル稼働である。到達不可能性を好都合、とさも波乗りしているような存在である。相手は良い迷惑である。もどかしい。殺したいのか生きていてほしいのか自分でも分からない。その交錯もそれぞれ同期しない。自分が死んでしまって、もどかしさの埒外に来たというのに三輪子は、風に同情し、生前は生きていてほしくてヘドモドしていたのに、
陰陽というか太乙図というか、オセロというか。見事に反転している。もはや担い手の制御から離れているのである。十人の女には媒体のない直接性をpoliはみてしまう。
「かわいそうに。誰かこのひと殺してくれないかしら」
〜三輪子(宮城まり子)
ひるがえって。
媒体物を満載させている風松吉の有り様は、コトバの飛び交う場たる"職場"において局長とのやりとりから垣間見える。
連絡ミス、この卑近な到達不可能に際して、同じコトバを連呼するだけで別件に流れていく。不可能性は置き去りである。それでも動いていく。
僕は君にちゃんといったよ、、僕は君にちゃんといったよ、、
〜本町局長(永井智雄)
更に場面は飛んで、終盤。
市子に、件の"職場"まで取られ、9人に去られ、"丸裸"になった風。
ここでも応答無しに、ただ連呼である。
そんなはずはない、、そんなはずはない、、
〜風松吉(船越英二)
市川崑が観る媒体物としてのコトバは、言語活動=対話において、それのみではいかにも脆弱に映る。