『ブランショ2008』

南館で。H坂にて2カ月ほど前から捕捉はしていたものの、またいつもながらの5すくみ6すくみ。で、手が出ず。ここで入手しないとまたアマゾン様となるので。あわてて。まぁ、その。
『2008』の対談から着手。ブランショがみえね〜みえね〜と実態がみえない代わりに傍らにいるのが、レヴィナスである。この2者の違いが、レヴィナスの主要な視点にふれてくるとは。。。。


他者と関わるときの間接性の問題ということになりますが、方法的には言語活動であるということですね。たしかにそこにブランショがこだわったという点はおそらくレヴィナスとの隔たりだと思います。【引用者略】レヴィナスはとても直接的な言語活動を考えている。超直接性とでも言えるようなものを言語活動にみている。それ以後、言葉、文章のないコミュニケーションという言いかたをレヴィナスはするようになります。そこでおそらく言語活動の関係に非媒介性というようなことを認めながら私と他者とを考えていった。これに対してブランショは、【引用者略】言語活動を非媒介性として考えることを非常に危険視している。直接性の言語活動をどのように考えるかというところで、【引用者略】ブランショはなぜ呼びかけだけに注目しなかったか。レヴィナスは呼びかけと言ったときにはかなり直接的な言語活動が考えてられていたのではないでしょうか。(「来るべきテクストのために」での上田和彦の言『2008』pp.105下-106上)
このブランショの媒介性をさらに郷原佳以が喚起する。

上田さんがおっしゃったように、六二年以降、ブランショレヴィナスに対する応答が目に見えるかたちでテクストに現れてきます。そこにはレヴィナスに対する違和感がところどころに見られます。そこで重要になってくるブランショのキーワードは、私の考えでは、媒介性ということだと思います。他者に直接的に呼びかけて、直接的に到達できるのではなく、対話するときにはすでにそこにあるもの、あいだに第三者的なものとして存在しているもの、それをブランショは描いている。【引用者略】到達不可能性を媒介の問題として考えるという視点がレヴィナスには欠けているという意識が、ブランショにはずっとあったんじゃないでしょうか。
(「来るべきテクストのために」での郷原佳以の言『2008』pp.107下-108上)
なお、あらたに意味不明な到達不可能性、なんてでてきているが、これはレヴィナスの言説のなかから見いだして、

他者との関係の背後に絶対的な他者、私が到達できない、私にとって未知のままである他者に対して私が関係する、あるいは応える
(「来るべきテクストのために」での湯浅博雄の言『2008』pp.107下)
ことをさす、と湯浅博雄が示している。