羽入辰郎2007『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書
しかし、それにしても。
同じことに触れながら、これほど捉え方がネガ/ポジ分かれた二者もない。そんなにかみさんがこわいのか、羽入辰郎。こらこら
ただ。
山之内のそれにしても、今回の羽入のそれにしても、社会を語る者において説得力をもつものは、その渦に巻き込まれまくっているなァ、ということである。自業自得なジンメルみたいなものにいれば、社会主義国から資本主義国に渡り歩いた、去就自体山・谷激しいシュンペーター、しばしば引き合いに出すハーシュマンやコルナイ・ヤーノシュはその最たるものであろう。
ヴェーバーの『プロ倫』が、羽入が前著で分析で示されたような代物であるにしろ、
一点突破+全面展開でフンサア〜イ、で、糸冬了〜
なわけね〜だろ、そんな言い草だけなら、
ただの質の悪い読書感想文か、ただのpoliのいつもの与太だ
あ、、、、、
ヴェーバーも上の4人も明らかに自分自身の難局を研究に投影している。前掲書にて山之内は『プロ倫』はそれが反映していると語る。
落語の国で息を吸っている住人がこちらにやってきてウダウダと言っているような鶴瓶の愚痴が、ああもリアリティがあるように、彼ら自身の課題とつながっている彼らの生き方が人をして魅了せしむ。
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それは、相同というのか?poli。
あ、そう?び、ビミョ〜??