と。まあ、poliの感情はさておいて。

 いっぽう、『遠い』には、佐野眞一の感情がやや空回っているような箇所がいくつかあった。


「私らの子供時代は貧しく苦しいことばかりでした。だけど無着先生は、そういう私たちに、作文を書くことを通して懐かしい思い出をいっぱいつくってくれました。でも、今の大人は、子供たちのなかにいつまでも残る思い出をつくってやっていないんじゃないでしょうか。私も駆け足でばかりやってきて、自分の子供には何の思い出もつくってやれませんでした。たしかに今は、昔は比べれば夢のような世の中になりました。けれど、それを思うとむなしさも残ってしまうんです。」
 この四十年の歳月とは一体何だったのか。キクエのつぶやきには、そんな問いを投げ付けてくるような強い響きがあった。
(『遠い「山びこ」』pp.325-326 ll.16-19, ll.1-4)
最後の佐野の印象はちと違うのではないか。こどもに思い出をつくってやれないと思うことができたのは、思い出を作る経験なしでは起こりえなかったのであり、残るむなしさがあるからこそ、夫の定年後、高齢者大学で学ぶ機会を得ようと考えることができたのではないか。これ以降に語られる江口江一も佐藤藤三郎も、佐野が痛ましげに語ろうとするにもかかわらず、自ら学ぶべきことを見いだし突き進んでいくのである。彼等にとって、「山びこ」がはたして本当に佐野がいうように遠かったのだろうか。