佐野眞一1996『遠い「山びこ」』文春文庫

 後者は現在刊行されているのは、新潮文庫版である。ホンコロ効果か???
 填め絵は、着々と埋まっていく過程が、佐野の方の序盤に描かれ、埋まった填め絵に立ち尽くす様子が原によって描かれ、埋められた絵がほんとに絵にすぎなかったのだろうか、と危惧が粟立つのが、佐野の終盤に向かっていくくだり、ということなろうか。もっともそれが成功か失敗かということはいつも通り描かれていない。やや感情の偏りがみられるものの、であるが。
 原は、相対化できない苦悶がにじみ出ていて、どうも読みすすめることに重さを感じた。彼自身やや飽きてくるのか、時期に並行したてっちゃんたる知識をところどころに埋め込んでそれをしのいでいるように見受けられる。たしかに舞台となった地域は、某大手鉄道会社の急激な開発によって進展した地域のひとつではある。
 しかしpoliが感じる重さは、多分原が苦闘しつつ語る滝山小学校の軌跡にあるような気がしてきた。poliは、まさにこの1974年に生まれた。6年ほど経過していれば、滝山コミューンが潰えていたはず。しかしどういうわけか語られている断片は残存して我々を苛んでいたように思える。そう、小学校と言えば、poliには単なる悪場所に他ならなかった。大人の論理を押し付ける、組織の原理を押し付ける、バロムワンで仲違いしていても、戦うときには息をあわせなくてはならなかったみたいな局面を何遍でも押し付ける、そういうやや無茶な大人が適当やっているトンデモな場所であったのだ。当時のpoliは、

班なんぞでヌクヌクしている奴、全員氏ね!!
鬼のパンツぅ???何サッッッブイこと抜かしとるか!!!

と言わんばかりであった。ただ、原よりかは、poliのほうがましであったように思う。日教組は、てめえの春闘のために授業を流しやがったというのだ。企業下の労組でそういう戦略を施し、困るのは、確かに企業家であろうが、学校でそれをやったら、困るのは、生徒であろう。

あ、そかそか、人質として生徒は困るからいいのか。


バカか!!!

、、こういう憤るような記述が淡々と語られていく。さながら、ばからしくても著述を突き進めるこの悲壮なまでの蛮勇ぶりは、大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書 1996)根本敬『因果鉄道の夜』(KKベストセラーズ 1993)を想起させる。
『遠い』に語られる無着の戸惑いと、『滝山』の片山の自己陶酔。我ながらとんでもなく食い合わせの悪い並べ読みをしたといまさら後悔している。poliは、むしろ前者にすくわれる。素直な意味で。溜飲が下がるということではない。しかし。それにしても。後者の醜悪さはどうにも堪え難く不快である。林間学校最終日の下りはその頂点に達する。
 、
 、