A.O.ハーシュマン1988『失望と参画の現象学』法政大学出版局


 誰もが知るように『諸国民の富の性格と原因についての探究』と題された彼の大著は、いうまでもなく、より大きな富の獲得とその目的を推進する上で必要な経済政策とを主として扱っている。その本の「序」で彼は、「悲惨なまでに貧しい」「野蛮国家」と、最も貧しい者でさえ「いかなる野蛮人が獲得しうるよりも多くの生活の必需品と便益〔necessaries and conveniencies〕に与れる」ような「文明化した、あるいは繁栄する国家」とを対比している。そのためこの本は、成長・富・「富裕〔opulence〕」の説明と勝利の歌、そして万人に「必需品と便益」を十分に与えるという目標の妨げとなるような政策への攻撃と考えられてきた。
 そうであるとすれば、『諸国民の富』の後段で、この同じ「便益」がきわめて軽蔑的な言葉で語られていることはなんと奇妙で驚くべきことであろうか!しかるべき注目を受けてはこなかったが、それは有名な第三巻第四章、すなわち「都会〔Towns〕の商業は地方〔County〕の改善にいかに貢献したか」と題する箇所に見られる。そこでスミスは、さまざまの国内産や輸入された製品への「大地主」たちの欲望によって、いかに封建的紐帯が緩められたかを描写している。封建領主たちは自分の家臣たちを解放し、「商人と職人」が提供する財を獲得できるようにするために小作人たちとの長期契約に入った。それは「狂気」の沙汰、「彼らの生得権」の売り渡しであるなど、とさまざまに表現されているが、その過程で獲得された財たるや、「小物や安物で、大人が真剣に求める装身具というよりは子供の玩具」と記述されたり、例示する目的から「一対のダイアモンド付きのバックル・・・ないし同様にたわいのない無用のもの」と記述されたりしているのである。
(pp.49-50 ll.4-15, ll.1-5)
 アダム・スミス道徳感情論』と『国富論』は"連続"した著作であることを見出したひとりとして、このハーシュマンが含まれていたとは、なかなかショックだ。しかも『国富論』にまで反便益の視点が堅持されていることまで指摘している。それが上の引用部である。

 便益偏重を牽制する経済学者の発言というのは、何度となく表明されてきた。日本においては、60年代の岩波書店に限ってみても、訳書から、ケネス・ボールディング、K.カップエズラ・ミシャン、そしてアーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記』の訳書刊行開始も同時期である。日本の著作においては、宮本憲一『環境経済学』である。
 あ、そうそう。別のところでは、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』もあった。

 かような命題はもう経済学の黎明期より生じていた、というかヒトの契約理念の開闢と同時に起動していたことを強調すべくハーシュマンによってその任にあてられたのが、アダム・スミス、というわけである。

 う〜む。これは上の2著の中間に位置する