レヴィナス『存在の彼方へ』講談社学術文庫

 別名、『存在とは別の仕方で』である。
 デリダと並行して読むと、混乱する虞れが過大なレヴィナスだが、その著作群を語る者たちが比較的重点的に論じているのが、本書であるように思う。ま。内田樹や本書の訳者合田正人しかまだ見てなかったりするけど。(ちなみに上の内田本に挑む下準備としてこれもおすすめ。だったりする。見事に内田本の投影したジュニア本である)
 多分、このpoliの見解はまたもやただの主観であろうが、なぜそれほど引き合いに出しているのが目に付くのか、実物にあたって確かめてみたわけである。
 う〜む、ハイデガーを介してカントを見、またフッサールに遡行している。(ちなみに彼がフランスにおけるフッサールの紹介者であったのだからこの遡行はあり得る。しかしその言葉への接近(というか、<語られること>と<語ること>の、言葉というルールの適用というケースの例示)は、ヴィトゲンシュタインが晩年に向かって『哲学探究』を透過してみようとしていた、ルールの外の他のルール、互いに独立したルールのなかで行うゲーム、という〝世界観〟に連なっているように思えた。(ヴィトゲンシュタインてのは、過日、某紙問屋の若旦さんのキザったらしい台詞をタタッキッテもらうためにご足労願った、憂鬱な爆発アタマの、そ〜そ〜アノ人だよ)この感知がまんざらpoliだけの主観で無かったことは、図らずも、本書の訳者合田自身の訳注において示されていた。
 これまた以前


 後期に現れる言語の使用説=言語ルールという発想は、そもそもなぜ哲学なんてあるのか、学問なんてあるのか、という遡行を促すものとして興味深い。poliは、この遡行のそぶりを感知したことから、現象学系、特にデリダの難解さなども、自らが感知した認識観をどう伝えようか攻めあぐねている姿が率直に現れていることに由来するのではないか、と目下考えている。
てな、感知をさらけ出した。デリダは、攻めあぐねてるんじゃ〜
、とは吐露することは無けれども、レヴィナスは同じく認識論と存在論のあいだを行き交うデリダと同じ領域の住人にもかかわらず、まさにそれを吐露するどころか、<語ること>という〝攻め方の模索〟そのものをテーマとしている。まさにそれが本書、というわけである。