甲野勇1967『武蔵野を掘る』雄山閣

(リンクは某大学の書誌情報。ということで。amazonにしてもbk1にしても…にしても在庫無し。poliは、甲野勇の著作群復刻を応援しています。カッテに


「63年前」という数字に21を足して「84年前」と修正することによって、ほとんど現在も通用してしまうということの意味することば
(そういうコマいことを重く取り上げてくれるのはここだけ

そうそう。確かに多いっすよ、そんなんが。


「日本の研究者がオリジナルな方法論を全面的に展開することは、ほとんどなかったといってもよいだろう。」【前掲】
ってまあ、そのひとの言も言えないことはないけども、そんなことは…


そんなのお前百年前から誰でも言ってるよ。お前変わんねえだよそれ、
お前縄文時代から変わんねえだよお前それ。
それ縄文時代から現代まで変わってねえんだよお前それは…。

エレファントカシマシ『ガストロンジャー』より)

といって、駄目なものは駄目みたいな、ミョーなあきらめの良さはもっといらない。
poliのようなコテには、やはり以下のような二つの疑義が浮かぶ。

  • そもそもなんでそんな強迫観念に駆られて〝オリジナルな方法論を全面的に展開する〟必要があるのか、って問いが透過された痕跡がないのか。
  • そんな全面展開する前に、63年だの84年だののあいだに、示された提案に全て挑んでみたとでもいうのか。

〝全面展開〟だの、〝超えたい〟だの、そんな漢臭サーなしろものはなるべく少ない方がいい。ああうっとおしい。このままでは、ただの食わず嫌いを増やすだけである。粗食をせぇ悪食せぇというわけではないまでも、だ。美食を味わいたいからと耳障りの良い「便宜的ないしは感覚的なもの」への傾斜をますます許すことになる。指摘通りこういう現状は、確かにゆゆしきことではある。

 土井義夫によって「多摩における「近世考古学」事始」(『季刊考古学』13 雄山閣1985) を通して紹介されている著書が本書である。土井のこのテクストは例によって目下屋根裏の藪の中であるが、本書は運良く拾得を成功した。ちょっとした地中の秘密であるアアッ!?うまくね〜ぞ

土井も挙げていたが、(←←←poliの記憶違い!!)「自然に帰れ」で著名なルソーだからって一目惚れした人の前でケツを出して「漏れのシゼ〜ン」ってストレートすぎるだろこのバカ!を引っ張ることで、開発への苦言を呈す甲野の感受性は、確かに魅力的ではある。彼の文脈は、縄文(恋ヶ窪の遺跡群の当該期)奈良〜平安(武蔵国分寺遺跡の当該期)〜中世(高月城八王子城遺跡の当該期)〜現代(恋ヶ窪・武蔵国分寺・八王子城の歩く甲野たちの当該期)を縦横に行き交っているということが魅力なのである。ルソーの引用もこの往還をつなぐ道標である。ロックの所有の記述も然り。
 もっとも甲野にしてみれば、ルソーに対して傾倒というほどでもなかった、とpoliは思う。ルソーの表現にみる未開と文明の対比は、際だて過ぎている。翻って、武蔵国府を抱える府中と、武蔵国分寺を抱える国分寺との、それぞれの竪穴住居内の一括遺物の比較から、階級の差は現前としたヨコ関係の府中と、階級を越えたタテ関係の国分寺のそれをみた甲野の発想はルソーのその認識から入って至った途とは思えないのである。


 国分寺では、身分階級の別がきびしいにもかかわらず、人間的な日常のつらなりがあった。高級品のおさがりが竪穴からでるのは、これを裏ずけるものである。このような現象が府中で見られないのは、当時の国府の地においては、官僚対人民の冷たい上下関係のみがあって、人と人としての接触が前者のばあいより、はるかに稀薄だったことを物語るのではなかろうか。国分寺竪穴住居と、府中竪穴住居との残した「財産目録」に現れたいろいろな違いは、その頃の庶民が置かれた社会環境の差を、そのまま反映したものといえるかもしれないのである。(pp.139 下段ll.6-14)

 余談であるが、先週末見学させていただいた某小藩の陣屋内の貝層(近世幕末の貝塚ピット廃棄ではなく、塚状とみられる)から出土した貝類や人工物からも、お屋敷というヨコ関係より庶民とのタテ関係の在り方を考えされるものであった。

「これによって人間社会のあるべき未来に見とおしを持つこと」なんて言う前に、甲野のような往還する途は選択肢にないのか??

「多様性を改めて検討し、空間的・時間的諸関係を解きほぐすための方法が模索されなければならない時期がきている」なんて言うけど、上の甲野のやや蛮勇な「財産目録」の比較検討を眼にするやいなや、
頑迷な反応を示したりにするんじゃあね〜の??

 そもそもあの捏造祭りだって、
72万年前なんて、昔過ぎて分かんね〜!フィクションみて〜なもんじゃあ〜ん
ってカラダになっていたから〝ミヌケナカッタ〟のではないか?
 フィクションから現象面へと〝救出する〟には、未来ばっか覗いてないで、過去へと遡行する、あるいは甲野のように各時代を往還するような思索も要されているのではないだろうか。歩く自分に至るまでの過去の足取りに靄がかかったまま酩酊して、何が未来だろうか。
 それからもう一つ。方法論上羅列にも効用があり、だからこそ従来からそれが試みられてきたのだ、ということをお忘れなく。そもそも型式分類とて、モンテリウスの〝七並べ〟よろしく、羅列から始めるモノではなかったか。羅列の作業なしに、どのようにAからEの相貌の隔たりや、AとA'の類似・相違を測るのか。事象の羅列である年表というデータ構造も、その羅列の重畳でもって年数の推移・経緯を認知できる視覚的なものとして形作られているのである。おさむちゃんよろしく、ぼんちシートを疾駆する、近年の折々のアボ〜ンどもは、もそっとこの効用について検討すべきであろう。
 したがって、『大森貝塚』解説における坪井正五郎の西ヶ原貝塚の調査への評価の不用意さなんざ、poliからみると噴飯ものである。
アフォか。