後藤和民『縄文土器をつくる』中公新書
先日、縄文土器編年研究=実証主義による時局から逃避、と短絡する見解は、いささか食傷気味なpoliであるが、もっと整理して、単なるクサではなく、「批判」をした人物がいた!
功罪分けて簡潔に評価し、次の指摘へ。
山内清男が縄文土器の編年網をまとめた昭和十年前後から、縄文時代の研究といえば、もっぱら「土器の変遷の段階を細かく分ける」編年的研究が中心となり、そのための発掘調査が各地でさかんにおこなわれるようになった。その結果、局地的な成果とはいえ、各地における土器型式の発見やその位置づけなどがなされ、それまでの編年網における地域的・時期的な間隙が次第に充填され、あるいは、従来大ざっぱに捉えられていた土器型式の内容がより精密に細分化されていった。それは一方においては、地域研究の輪に広げる契機とはなったが、その流行のあまり、本来の目的である縄文文化そのものの研究には、なんら画期的な進展がみられなかった。
(太字強調は引用者、『縄文土器をつくる』pp.30 ll.2-9)
う〜む、もっと的確な批判を表明している人物がこの人だったとは、まだまだ不勉強だあ〜
この原因を、当時の軍国主義化する国家体制や国際情勢の時代的背景のせいにし、その「国家権力との対決を回避した考古学が、ブルジョワ自由主義の雰囲気のなかで選んだ最良の道」が土器編年という実証主義だったのだと解釈する論者もいる。しかし、一見、自己反省のようにみえるこの評論さえ、厳密にいえば、一種の責任転嫁であり、己の無力無為に対する自己弁護にすぎない。むしろ、当時の考古学的な観点やその研究成果においては、国家権力=「皇国史観」と対決しうるほどの基盤も内容も、ほとんど持ち合わせてなかったというべきであろう。その証拠には、戦争も終って、思想や研究の抑制は解かれ、言論の自由が保障されたというのに、ほとばしり出る切々たる主張、鬱積し醸成された蘊蓄、新しい時代の鳴鐘・・・、縄文時代の研究に限っていえば、そんなものが一つでも見出せたであろうか。(同 pp.30-31 ll.10-16, ll.1-2)
poliにとって、本書をはじめ読んで興味深かったのは、千葉で酪農をして生活した青年期を経て、大学で考古学を専攻したという著者の「自分のなかの歴史」です。そういう著者の上の言説は、過日の赤松のそれと同じく訴えるものがあり、こんなことは我々若僧がいえるもんじゃない!なんて思うわけですがー。
ま、もっともこれが、『原史学序論』を引き立てる呼び水(びっくり水?
それから、それから。時局に乗じた発言なんてやれる素地なんて考古学者にゃないでしょうね、一貫して。以下の書には、その決定的な証左がその著者たちの激昂と嘆息を交えて示されているように思う。