明日、武蔵小金井へコミケに行ってきます、、ネコ男

フハッ、な、なんてベタなっ!
 今回は、やはり高松塚の件で今日の一日目も話し合われたのだろね。
 これは捏造と違って、責められてもな〜という気がする。所詮、考古学を埋め草程度として内容の軽重を問わない旧態依然としたマスコミの意識にも問題ありじゃないかい。捏造のときもその反省全くなかったしねぇ。
 実際、湿気を供給する環境に、カビという生き物がほっとくはずないだろ。剥ぎ取りをせず、現状保存に踏み切ったという決断をしたときから、施政者側は、このことを覚悟してきたのだろう。なんとかカビを逐次食い止めつつ、保存技術を進展を待つ。そういう選択だったのだ。
 「剥ぎ取りをすべきだったのではないか」なんて今更言うのは、「なんで捏造を見抜けなかったのか」とクヨクヨするのといっしょである。 かようないわゆる「捏造死ね死ね団」の狂態をみるとよく思うのは、遠い日の記憶である。わたしは算数の宿題の計算ドリルを解いていた。当時のわたしはそれこそ、「計算死ね死ね団」の有力な団員であった。このため、巻末の答えを見て書き写したことがある。親に見つかり死ぬほど殴られた。解く過程を経験させることが教える側の意図であったのに、有力団員のわたしは、ほんのりとバカだったのでそんな活動してみました、功徳をおくれぇ、みたいな(おい、かなりだなpoli)。
 翻って「ああ〜、こうやって、捏造していたんだ〜泥入ってるものね〜」とかいっている「捏造死ね死ね団」をドツキ廻す親はいなかった。かわいそうに。そんな狂態を示しつつあのお祭りは終わったらしい。
 仮にカビ発生が発覚しても、これは別に箝口令が敷かれるまでもなく、マスコミが何も嗅ぎつけなかった不感症も問題じゃね〜の。捏造みたいなカゲキなネタじゃなきゃ、ダメかね。あなたがたは、ニュートラルな面をして、結構アブノ〜マルな存在であることを忘れているのではないかいな。特に考古学の記事を書く連中は、なぜ優等生のコスプレに終始するのか。立花隆でさえもそうだった。
 おまけに散々他人をクサするような言説を吐く一方で、こんな本を出す人間は、直の先輩であるこの人の仕事などをもう一度読み返して省みる必要があるのではないか。死ぬ覚悟など考える暇もなく、研究に打ち込んだはて彼らのような口性ない輩に取り囲まれ死を選んだ人間も現れた。その選択が「おまえらに何がわかる」という態度の表明なら、それも腹立だしい(そんな単純な者ではないだろう)が、いづれにせよ、平素、「実際にみていない・ふれていない・掘っていない奴には分からないよぉ」と他者を阻害するヲタな多数派を含む、この学問の関係者は、そういう世間の論調のその口性なさには耐え難く、脆弱なのだ。だから反省を試みる立場の中でその口性ない輪っかに入って擬態する人まで現れた。そんな人は強くないから仕方ない部分もあるのかもしれない。しかしこの本から更に改訂したこの本に切り替わってから、一体上の執筆に加わった人間のどれだけが、逐次を含め、考え、発言してきただろう。私の無知・不明のせいか、今まで全くお目にかかったことがない。再出発は、あなたがた一人で万事オッケーと、ま、そういうことですかね?
 今回の発表は、理化学的分析の所見の発表が多い。これに対して冷淡であった従来を思えば、喜ぶべきかとは思う。
 が、捏造の反動による科学礼賛なら、そんなもんダメダメだろう。認識論の貧困とて問題にすべきなのだが、だぁ〜れもそこは発言しないね〜。パラダイムパラダイムって、科学哲学の用語を使う癖して、その学問の問題意識からは何も感じないのかいな。この本の終盤について注目した反応もでてこないしねぇ。そんなもんなのかね。
 、、ということで、ネコ男ことpoliは、明日、武蔵小金井へ。タリバあンもいるんだろね、また。ナハハ。