ポリエコなんて

 言い方はないけども、カツゼツの悪いポリめが、身勝手にも略しているだけ。
(後日談:いやいや、そうでもないらしい。URLにあしらわれていた。や〜身勝手でなくてよかった、よかった(そ〜か〜?))Political Economy、経済学が確定する前の呼称で、A.スミスによって経済学という呼称が確定されたという説がある。

  • Political Economyの含意を保持したいと望み、敢えて呼称を堅持する立場もあったという。ラスキンやモリスがその立場に目され、近年の文化経済学の登場とともに再評価がなされている。大熊信行の初期作であるラスキン、モリスの評伝の復刻も、偶然ながら軌を一にしている。
  • 左右田博士五十年忌記念会編1975.9『左右田哲学への回想』創文社
    • 左右田博士とは、左右田喜一郎のことである。大正期、家業である左右田銀行の頭取を継ぐ傍ら、経済哲学なる独自分野の開拓を試みた経済学者である。一橋大学で福田徳三、フライブルク大学でリッケルトに学んだ。前者は社会政策学派の旗手たる厚生経済学者で、同門に先の大熊がいる。後者は新カント派の領袖で、同門にマックスウェーバーがいる。片や経済学、片や哲学によって模索された彼の経済哲学の進展は、『経済哲学の諸問題』そして『文化価値と極限概念』にまとめられている。
    • 上掲書は、左右田の関係者や、彼の思考に影響を受けた後の世代の研究者が寄稿した彼の再評価をまとめたものといえる。彼の『文化価値と極限概念』にも現れているように、先のスミスらによってまとめられてきた使用価値−交換価値の二元論を、さらに超えた価値判断を模索するというのが彼の経済哲学の含意であった。
    • とすれば、それは、ラスキン、モリスが目指すところのものに近いように映る。二人は、スミスの先の二元論と対峙し、左右田は、福田門下の小泉信三らが積極的に紹介した純粋経済学と対峙した。
    • まあ、これを外から見れば、アラン・ブルームらのような経済学で全て解決しようとする、とかいう批判がまたでてくるのであろう。この例にしても、結局前に述べたとおりで、双方ともほころびはどうしたってでてくるクレタ人なのである。要は、じゃあその第三の価値とやらをどうやって認知するのかということである。(なんかカミオカンデに触れた閃光ぐれえ、気ぃ遠くなりそなアポリアではあらあね)
    • 例えばトマス・カーライルは、経済学者ジョン・スチュアート・ミルに対し、「そんなもんが経済学だぁいうのなら、陰鬱な科学だよ!ったく」とまで言い放ったという。というか、
      てめーらはその自ら放った人種差別発言をなんとかするのが先決だろがぁ!
      とも思える。ったく、幸福だの豊かさだのとかいうそれ以前のはなしである。
    • 八重洲古書館や、横浜伊勢佐木町の某古書店などで『文化価値と極限概念』を目撃していたものの、どうにもまだ早いなあ(はあ??)なる感覚を覚え手に取れなかった。多分他の人らは、旧字体でとまどうのかもしれないが、この時期の本はみ〜んな旧字体なので(『経済学方法史』なんざ、その最たるもの)そうもいっていられないし、何も高校時代の古文教科書ほどクソ読みにくいこたあない。
    • ちなみに先の大熊は、この左右田の経済哲学には否定的であった、と上掲書にも記されている。以下、大熊の関連文献