というわけで。科学哲学界の漫エフ画太郎(おい)

 ことポール=ファイヤアーベント大先生の御成りである。三つの対話のうち、彼の咆吼を最も反映するのが、「第二の対話 科学とは何か」である。年代からいえば、この対話が一滴落とされ、ややクールダウンし第二を相対化して示された第三の対話、そして三つに集約させるために序として示された第一の対話、と波紋を描いていく。それだけに、第一のほうは論点が正直、より抽象的なきらいがあり、第二で意図が開示される感を受ける。
 で。その第二の対話である。批判的合理主義の支える優等生的な科学哲学にシンパシーをもっているA氏に、非科学な言説として占星術の是非を投げかけるBことファイヤアーベント、という構図で対話が展開する。コペルニクスの足がかりを作ったとAが評価するケプラーが実は、占星術との関係から離れられないダブルスタンダードな人物であった、だとか、ガンの研究は30年を経ても顕微鏡が発明される以前からの手術法である組織切除に毛が生えた程度だ、と酷評してみせたり、まったくなんとも意地の悪いくそジジ〜である。Bというのは。近影通りの人格である。(参照のこと!!)と、そんな脱線を交えつつ、Aの知らない話題を衝いて窮地に誘いつつ、占星術に突如話が戻ってくる。


B でも僕らがこの問題を話し始めたときには、君はまるで随分たくさんのことを知っているように振舞ったんだよ。そして、それはあらゆる科学者について、彼らが、自分では何も知っていないようなことがらに何かご託宣を発表なさるときに、いつも当てはまることなんだ。
A そんな科学者がたくさんいるとは思えないね。
B 君の幻想を打ち壊すのは申し訳ないけどね。ちょっとこれを読んで見給え。アメリカの雑誌『ヒューマニスト』(ここでの結果とは恐るべき食違いを示す表題の雑誌だがね)の一〇/一一月号(一九七五)だ。ここには占星術を批判する論文がいくつか載っている。それらはひどい論文で誤りだらけだ。【引用者略】別の論者は、占星術は魔術から発した、と書いている。しかしそんな一般的な言い方をするというのであれば、近代科学だってまさに「魔術から生まれた」のだ。そこで君を言うだろう、そりゃあ、科学者にだって、自分が発言する資格のある限界を踏み越えてしまって、わが身を嘲笑の的にしてしまう連中はいつもいるんだ、とね。だけどね、先へ行くともっと細かい話になるから、一般的な声明の終わりのところを見てごらん。科学者一八六人の署名があるじゃないか。一八六人だよ。これらの教養ある紳士諸氏は、明らかに、論証によって人を説得することよりも、ただ人をこづき回すことに関心があったんだね。何故かって?もし立派な論証が一つあれば、どうしてそんなにたくさんの署名をもってくる必要があるんだい。ここにあるのは、科学的回勅以外の何ものでもないね。法王様方が語って下さった、ことは決まった、というわけさ。じゃあ署名簿を拝見してみようか。
(本書pp.137-138 ll.10-17, ll.1-13 太字強調は引用者。)

あは、あは。あはははは、、、、、

 笑うしかないではないか。なんて身も蓋もないことを、、、、
 その署名簿には、ポパーのシンパやノーベル賞受賞者が名を連ねていて、特にこの受賞者らにあるテレビ局が、同テーマ、つまり占星術の是非を擁護者と議論してもらおうとしたところ、全員断ってきたことも指摘している。



そして、この態度に対するBの批評は。。当然というべきか。こうなる。

この教養ある紳士方は、自分が攻撃しているものの何たるかをご存じないわけだ。こんな文盲どもが、僕らの学校で何が教えられるべきで、何は教えられるべきでないか、をお決めになっているんだよ。こうした文盲どもが、尊大ぶった軽蔑の露わに、自分の学んだことのない、したがって自分には理解できない、古い伝統的な考え方は、根絶やしにしなければいけない、と宣うのだ。そうした伝統に従って生きようとしている人々にとって、どれほど大切なものか、という点にはおかまいなく、なんだ。こうした文盲どもが【引用者略。引用者略だって!!もういいだろ】
(本書pp.137-138 ll.9-15 太字強調は引用者。)
ホラ、やっぱり使えないでしょ。ノーベル賞サマに、文盲ども。である。

うわあ、言ってみて〜!!

だめだ。ぜったいだめだ。