伊藤寿朗1991『ひらけ、博物館』岩波ブックレット

 バックヤードへの招待をも辞さない、伊藤の"ひらく"態度は、事物にも例えば不可動性を有するものがある、ということへの配慮などは、自明なことであって、彼自身はその次の段階に目を向けられているに過ぎないのだろう。しかし招かれる側にその自明はない。このため、伊藤からみれば守旧的に映るであろう『博物館は生きている』の廣瀬鎮の配慮もまた、新鮮に映るもう一方、ということになる。
 とはいえ、近年のように教育という側面で声高に論じられる以上、口数だけは圧倒的に多い学校教育や「公民館教育」の文脈の中では、伊藤の思潮をこそ待望するのであろう。現にオオヤケのオイニイぷんぷんたる東京国立博物館とて、国史館構想のメタモルフェーゼであり、はたまた歴博・民博などなんかこう、インパクみたいだは、明治百年事業の余滴ではないか。イデオロギーという濁流の賜物として立ちあらわれたのだ。もっとも、そのイデオロギーを底上げした要因は、全く異なる経済状況に帰するのであるが、そもそもイデオロギー増幅装置として利用した歴史は古い。鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』(小学館文庫 2000)におけるサン・シモン教団によるパリ万博、吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書 1992)における明治政府主導の内国勧業博覧会。等々、また類例はたくさんあるのだろう。
 といって、日本展示学会『地域博物館への提言』(ぎょうせい 2001)のような、巻き返しを図るかのような舌鋒でまくしたてては、単なる議論の渦を補強するに留まるのではないか。『ひらけ、』では、1960, 70, 80の三期を追って事物からの受容+受容した情報の発信を模索する行為の推移を分析している。そしてこの推移をつくったものは、高度成長期から生起した文化への関心、特に企業による博物館設置にみられる「企業文化」の出現も一助となっている、と伊藤はみた。没後、著作集として編まれた『市民のなかの博物館』(吉川弘文館1993)に収録された「四 消費社会の博物館」からは、伊藤がさらに消費文化との相関を見ようとしていたことが分かる。
 実は、後年上梓された森本和男の『遺跡と発掘の社会史』(彩流社 2001)も、消費文化にこの種の要因を求めている。森本は80年代と言い切っているところから、セゾン文化のイメージがどこか入っているのかもしれない。もっとも、森本が対象としたのは、急増した発掘調査とあのねつ造祭り一件に至るまでの考古学への世間の認知である。
 伊藤の思考が現在に至るまで重く見られるとすれば、この推移に寄っかかることなく独行して文化を考えることを事例を介して示したからであろう。ただ消費するだけの事物ではなく、そこから再生産するよう模索する契機を共有せんと目論んだのである。
 事例のひとつとして紹介されている茅ヶ崎の博物館を考える会が、その活動のなかでテニスコート建設から守ろうとした貝塚とは、縄文時代後期の貝塚である堤貝塚のことであり、この際の調査の最終報告は、2000年に上梓された。この事前報告会が行われたとき、考える会、市教委の担当者、文化財審議委員、考古学者、そしてpoliのような他地域からきた根無し草のプー(当時)という様々な面々が一同に介した。これだけでも仲間うちの祭りなどというものでないことはお分かりであろう。少なくともそこには、市民 × 役人、などという予定調和な対立モデルもなく、理解者とそれ以外という排他的な運動体の姿もない。ハーシュマンではないが、そこには参入もあるいは失望にさえも余地があることを意味する。
 『提言』には、事物からの視座で、この推移とは独立して状況が変じたのか、あるいは不変だったのか、はたしてその種の分析がなされていただろうか。
 と。ま。
 別に『提言』が責めを負えなどという話ではない。あのような反動的な舌鋒になる背景には、『ひらけ、』をありがたがる読者が、上の分析の過程をはしょって、現状認識するためのモデルに過ぎない「3世代博物館史観」だけを引くからである。それでは、さも双六の"あがり"としての第3世代という認識で勝手にハテテしまうのも無理はない。で。これに
ムッキ〜〜〜、ブツはどこいったぁぁぁ!
ということになる。過日、定例のvolクサにて、状況が当たり前過ぎて、相対化できないという話をしたが、これもそのリスクをはらんだ捉え方だろうし、現にそうなっている。


くわが数本ある。比べてみると柄の角度が違う。パネルを見る。平野用と山間用で角度が違うことがわかる。なるほど、と思う。
(『ひらけ、』pp.39 ll.2-3)
翻って、現状に問えば、なんで同じ鍬が、何本もならんでいるだ?と言われっぱなしで、自明となっている=展示の設計と符合している伊藤のような説明ができない、むしろ同調してしまう対応を、poliは図らずも何回か目撃している。説明ができないのは、そもそもの展示の設計下の構成がそうなっていないという本質的問題も含んでさえいる。しかし、少なくても無駄だ、で解決ではないだろう。前任者はなんでそういう設計をしたのかを考えるのが先ではないだろうか。そういう思考もなく、
あきちゃったから展示替え〜
などしても、結局答えられない、というか答えるまでもなく理解してもらえるような展示がなされることはないだろう。
 伊藤は多分そう受け取られる危惧があったのだろう。跛行的でなく総体としてとらえてもらうべく、「あなたのまちの博物館チェックシート」という術を示したのではないか。でなければ、註の指示と誤認してしまうかのような、文末に番号が付される説明文と、これを括る「これだけは求めたい―博物館法にもとづく条件」「さらにこれも―ひらかれた博物館を求めて」の2つの節で構成される奇異な記述法はなかったと思われる(最後の章の「あなたのまちの博物館」を参照)。そして、むしろこっちのほうが、現状認識に効力が限定される「3世代博物館史観」以上に、より参考、というか再考してもらいたかったツール(伊藤の言では「公立館の利用者のためのものさし」(p.48 l.6))ではなかったか。

、ただ。これを来館者に配布したら、

いや〜そりゃ〜厄介だあね。

例えば、□19 教育委員会が所管していますか についての一文は、こうある。

 役所のどこの所管かも、館に聞いてみよう。
 最近の博物館では、市長などが直接統治する総務局などの部局が所管する例が多い。
この場合、どんな影響があるのだろうか。たとえば、市長が中国を訪問したとき、博物館に突然、中国についての特別展をやるよう指示したという例がある。また、博物館が遺跡の保存のパネルを展示したとき、「市が決めた開発政策に反する展示は許されない」と市長に撤去させらされた例もある。行政の論理が教育の論理を押し退けたわけである。
 博物館が、教育期間として自由な地位を占めるためには、一般行政から独立した教育委員会が所管するのが望ましい。(p.55 ll.3-10 太字強調は引用者。)
市長は、投票によって選出された以上、彼の意図など、市民の総意などではなく多数派の意にすぎない。上の例は、ようするに多数の持ち物としての博物館である。それ以外の少数は手を付けることさえ許されない、と、まあこういうことになる。

〜〜ん〜〜なこと、あるかぁぁぁ!

いやいやいや、上の例が事実だというなら、そういう認識がまかり通っているということである。実は、この種の所管形態が、もっと当然のようにまかり通っているのが、自治体史を編纂する部局のそれである。一歩間違えれば、ただの市長のプロパガンダ機関が自明となっているということになる。



おいおいおい、いいのか????これは。