J.ナンシー, J.デリダ, M.ブランショほか1996『主体の後に誰が来るのか』現代企画室


デリダに強い影響を受けたジャン=リュック・ナンシーは、解釈学的共同体のこの閉鎖性を批判するため「声の分有」という概念を提示している。「分有partage」とは、何ものかが分割されつつ共有される状態を示す言葉である(英語のshareに相当する)。そしてナンシーはその語によって、ひとつの同じ声が、誰にも固有のものとして奪われないまま、また理解もされないまま、伝達だけされていく連鎖の状態を考えている。これはまさに、私たちがエクリチュールの引用可能性と呼んできたものに等しい。
(東浩紀1998『存在論的、郵便的』新潮社 p.27 ll.5-10 強調太字は引用者)

 東浩紀によるパルタージュ観。である。

 poliの管見としては、斜字で示した部分にはちと疑問である。"ためしてガッテン"伊集院光の回想によれば、初期はそんな強制はなかったらしいでもあるまいし、みんなして"理解した"フラグをババーっとおっ立っていくわけでもあるまい。みんなして

あっかあっげて!、、
っあっいやいやいや・・・あっかあっげない!

てな話でもあるまい。
実は、これを切断可能性=引用可能性の等式を強化するための伏線として使用している東の意図が濃厚に現れている部分なのである。
 だがそれは、デリダ(やナンシー)の想定の一面を示しているに過ぎない。"切断"という語に注目すれば、"既に混交された"現前から発している思考といえる。対象受け入れる段階も、それが再び吐き出されてその後の段階も、そこにはない。興味ないらしい。
 デリダの射程にもナンシーのそれにも、"混ぜる"現前の前駆・後続が含まれているということは、2人のやりとりを上掲書に現れていることから明らかである。そこまで看ないと、感知できないほどに明確な徴候とまでは感じていない。先に示したように東のそれはあまりに2進法、あるいはブール代数かそこいらである。


デリダ 【引用者略】他我というものは、自我に対して、おのれを現前化することは、根源的現前となることはありえない。他我には類推的な疑似現前化があるだけだ。他我が「それ自身として」与えられることは決してないのであり、それは現象学の原理中の原理に抵抗する、すなわち、根源的現前の直感的所与に。他者からの、また時間からの、主体のこの断層化は、【引用者略】現象学中とはいわないまでもその縁辺で、まさにその可能性の線上で起きたのだ。
(上掲書p.156 l.8-15 強調太字は引用者)
ナンシー 【引用者略】自己との隔たりを働かせないような自己への現前はない、そのようなものはあったためしがなく、この隔たりを要求するのは、要するに、現前だというのだ。「脱構築する」ということは、この場合、現前のただなかにあこの隔たりを示すことだが、このことは、同時に、「主体の形而上学」が単に時代遅れで、それとは別の思考が、一遍に別世界に来てしまったかのように出現するという具合には、両者を単純に分離できなくする。とはいえ、何かが起きたとは確かであり、主体の思想の、そしてその脱構築の一つの歴史がある。
(上掲書p.157 l.7-12 強調太字は引用者)

 そう、東が"切断"と解したdis-みたいな、語のてっぺん引っ付いてるものを看取したくらいの単純なしろものではないということである。結局、de-コンストラクションという語句の魔に絡め取られ、時系列をも射程に入れた上で対談する2人の姿を見落としてしまったのであろうか。あるいは新潮社の編集者サマはそんな微温的な構図はお嫌い、ということなのであろうか。失礼ながら、新潮社は昔から現代思想と目されるテクストに対して、どうにも消極的である。もっともフーコーも過日のスティグレールが批評したグーラン『身振りとことば』もここから刊行されているわけだが。
 
 ま。それはともかく。引用では断層化だけが現れているが、別のくだりではこれとともに分割もその同格に布置させている。分割も、何かが起きたと感知するのも、外から来るものではないと2人は言う。そしてその後続の射程を被う彼らの意識が表出しているのが、その次の議論の俎上にあがってくる応答可能性、ということになる。脱自己固有化の脱を促す媒介項ということになるのだろうか。はて。

 このパルタージュと、その縁語ともいえる脱自己固有化の議論は、上掲書はもちろん、デリダ個人は、過日示したスティグレールとの対談の主題において継続しているといえる。そのとき示したように、デリダは、東がいうような前期・後期などポイポイ棄却するような発想に留まらず、当初の発想をも行き交いつつも議論を展開している。これは今回のそれも同じである。どうやら、このスタンスは亡くなるまで変わらなかったようである。はて、前期?後期?とは??

 あ、そうそう。
 ちなみに、上掲書はナンシーの"惹句"に誘われて、デリダなどの現象学系から、アルチュセールの影響下にある一派、発狂前のアルチュセールが庇護したラカンの影響下にある何人か、そして現代思想申公豹ブランショまでも吹き寄せられ、寄稿されたコユイ一品となっている。

 かつて、アルチュセールラカンのラインに叩かれたポール・リクールが副手に迎えたのは誰あろう、若き日のデリダである。その苦境をみていたであろうデリダは、この対談の初っ端から、そのアルチュセール, ラカンの弟子連にくすぐりを入れている。、、火花というのは考えすぎだろうか。