武藤山治「実業読本」現代日本思想大系11 実業の思想 (1968 筑摩書房)

 何かみついてんだか。厨先生だの笹子才蔵だのに首をかかれそうになってもこの人は懲りないね。またズレているし。マルクスを読んだというなら、じゃああなたは、オウエンでも読みなさいよ、みたいな。
 池田信夫Blogの20070120付記事「マルクスにさよならをいう前に」は、一方的に反動的なものを嗅ぎ取って、一方的に反動化した記事となっている。というかミイラ取りがミイラとなった。で。このズレをちゃんと原点にあたって指摘しているのが、「遠方からの手紙」の20070122付記事「マルクスの読み方」ということになる。ま。そもそもこの話題の中心となっている内田樹の研究室20070120付記事「さよならマルクス」が〝守る〟という抽象的な表現になっているからであろう。もっとも抽象的というのは、競争原理を尊んでいるかのような誤解を招くくらい感情的になっている池田側から見ての話である。
 〝守る〟というのは、その状況から脱却させるという選択もあるが、その他にもその状況の中でどう処していくか、術を授ける、あるいは自ら模索するという選択とて含まれるではないか。そもそも公教育なんて話題に広げるからこんなことになるのだ。上の3方のなかで引用され注釈されるマルクスの公教育観というのがあるのだとすれば、その当時待望、整備されていた、どちらかといえば、職業教育とか、社会教育とかその系列のものである。(だいたい、ロバート・オウエンの名までデカデカと。そんなことをしたらこの観点が鉄板ではないかい!!)学校教育はどこいったのか、みたいな印象を受けるが、ここで大事なのは、マルクスはその状況から脱却する提案ではなく、中で術を探る提案をした、あるいはその議論に荷担したということである。
 したがって、確かに競争原理氏ね!!とは言っていないまでも、競争原理から守る施策を待望したとは言えまいか???
 なお、武藤山治の著作を挙げたのは、オウエンと好対照になる日本人とすると・・と考え挙げてみた。特に「一一 使う人、使われる人」にこの傾向があらわれているのかもしれない。