D.H.ロレンス2004『黙示録論』ちくま学芸文庫

 最後のフッサール最初のデリダ、という帯を巻かれたのが『幾何学の起源』([新装版]2003 青土社)であり、最後のロレンス最初の福田恆存、という解説が付されたのが、本書である。多々の出版社にて出されているものの、美文家で知られる福田の訳出に挑む〝ちゃれんじゃあ〟はいないようで、今回も改訳なしである。


すくなくとも、ぼくはこの一書によって、世界を、歴史を、人間を見る見かたを変えさせられた。
(本書p.345 ll.4-5 昭和26年、白水社版のあとがきより)

私はこの書によって眼を開かれ、本質的な物の考え方を教わり、それからやっと一人歩きが出来る様になったのである。
(本書p.346 ll.8-9 昭和40年、筑摩書房版のあとがきより)

私に思想というものがあるならば、それはこの本によって形造られたと言ってよかろう。いい時にいい本を読んだものだ、この本ばかりではない、私はつねに都合のいい時に都合のいい本を読んでばかりいる、つくづく読書の幸運児だと思う。
(本書p.349 ll.4-6 昭和57年、中公文庫版のあとがきより)
 ほ〜。ってことは、ここにあの最強の論客たる福田恆存の血肉がここに???
 しかし。彼は言論にあっては論客であったろうが、そのテクストは『日本を思ふ』(1995 文春文庫)でも明らかなように、生活的な話題から始めるのも辞さない、非常にクドクドと説得的な重量系のそれをものすこともあった。ここから本書に遡行するなら肯けるが、その言論から遡行するだけでは難があるかもしれない。
 ともあれ「最初の福田恆存」であるのは、上のあとがきの本人の直の強調からも明らかであろう。
 坑夫の一個人は坑夫に、中産階級の一個人は中産階級に帰属させることありき、というのが、ロレンス自身が父や母や兄弟を通してみてきた現代人像である。ここから、隣人愛で知られる愛するというキリスト教の骨子と、その現代人の現象面が、その方向性に矛盾があると衝く。つまり、現代人は愛し得ない、信仰の裡にある愛するということを全うし得ない、と結論づける。

諸君は諸君の隣人を愛する。が、たちまちにして相手に己れを絞りとられる危険に遭う。諸君は退いて、自己の拠点を死守しなければならない。愛は抵抗となる。やがて最後にはただ抵抗のみが残り、愛情は消滅する。これが民主主義の歴史である。
(本書p.211 ll.12-15)
この信仰の指向と国家=社会の指向とがぶつかり合う矛盾を解消せんと欲する行為として信仰者が比定した、とロレンスが指摘したもの、それこそ、黙示録に描かれたことであったというのである。もっともロレンスは、

吾々としても滅びたくはない。それなら、この虚偽の立場を放擲しなければならぬ。クリスト教徒、個人、民主主義者としての虚偽の立場をかなぐり捨てようではないか。
(本書p.212 ll.14-15)

そんなことできるかい!!ぐるぁぁぁ!!

と、きっぱり拒否し、そんな矛盾というか悪循環から、

Youたち逃げちゃいなよ!!


いや、っていうか誰だおまえは!!

と読者に呼びかける。
 この訳出ののち大衆論を展開する福田自身の根底にあるそれでもある。福田は、黙示録を通したロレンスの擬制の解体への促しに応えようとし、いっぽう永井豪は、黙示録からデビルマンを創造した。
 余談だが、〝愛する〟という述語からメスを入れるロレンスのその発想は、デリダの○○を与えるの〝与える〟から発想するそれを想起させる。それにしても、デリダの後継者たるジャン=リュック・ナンシーなどが共同体と聖書への思考の深化を専らとすることを思うと、ロレンスのこの発想をなんと見ているのだろうか。