イヴァン・イリイチ2006.12『生きる希望』藤原書店

 キリスト教の信仰はコンスタンティヌス帝のその教会の公認を境に、制度化した。そのために罪過の取消は別のはたらきをする〝赦し〟の作動を封殺した、というのがイリイチの見立てである。その〝赦し〟のはたらきとは、キリスト教徒の信仰の輪の中で「そこで生きるべく召命を受けた愛と相互的寛容の表現」としていて、この表現の欠けたところで罪が生じるわけで、道徳的に間違いというよりも〝欠いている〟と感知することを指している。
 これができなくなったことが、制度化の瑕疵すなわち「最善の堕落は最悪」というイリイチのコトバの含意である。
 但し。
 べつに制度がイカンとイリイチは言ってはおらず、必要悪として出来したものであることを暗に訴える。


 ところで、わたしがこのようなことを口にしていると、人々は言います。そうだ、現代の生活には満たされないサービスへのニーズから結果するある種の苦しみがあるのは分かる。しかしなぜお前はそれを新種の苦しみ、新種の悪などと呼ぶのだ、なぜお前はそれを恐怖などと言うのだと。理由は、わたしは、この悪を、権力や組織や操作などを行使する試みから帰結したものと見るからであり、そして、まさにその自然性情からして、自分が選ぶ誰にでもキリストの顔を見るという召命を受け入れた個人の自由な選択以外にはありえない何かの社会への現前を確実にする法によると見るからです。
(前掲書p.110 ll.10-16)
お気づきだろうか?ここでイリイチは先に〝欠けた〟とみなした、件の表現を実践してお目に掛けようとしているのだ!!
 カラダを張ってそれを積み上げるベッカリーアのような立場の反対側で、その象のような大いなる化け物を撫で続けた非定形な思索家は、頬に宿痾を抱えつつ2002年までその身振りを続けた。本書はその晩年期の談話に基づくのだという。
 ちなみに。
 信仰から制度を見いだすこの視点は、かつて猊下の尊称まで受ける高位の聖職者に登りながら、教会当局と衝突し去らざるをえなかった彼自身の裡から湧き上がったものといえる。