考古学で夢を語ることは、別にかまいませんけども

 赤松啓介が、考古学に夢がないこと=大胆な仮説を提示することを軽視する傾向を批判していたというのは、確かに心の動く心地はする。
しかしである。
 実証主義=夢がないというのは、彼の世代のみは言えても、その後の世代が尻馬に乗ることほど、勘違いな話はない。感動もほどほどしていただきたい。
 poliは、捏造祭りによって、この戦後考古学が実証主義という手札を掌中で繰ろうにも握ることさえ出来ていないという現状が露呈したと考えていることは先日示した通りである。そういう世代が赤松を読むというのは、その種の慎重さをもっていただきたい。説教くせ〜、こういうのを抹香臭いとかいうらしいぜ。うるせえ、このばかやろう
 夢を嗤ったり、それを封殺したりすることは、唾棄すべきことである。しかし自分が勝手に「夢がない」とみなすことができるからといって、実証のプロセスを同じようにクサするのは、同類であり、ただの反動である。過日例示した、算数死ね死ね団員時代のpoliと同じだといっているのである。くどいようだが、今やそういうことをしていても、こっぴどく叱ってくれる人はいない、仲良しクラブな住人になっているはずなので、自分で気づくしかない、という危機感をもそっと感じないものなのかいな、、
ロンドン橋でも唄ってろ
もしくは、
恋のぼんちシートでも唄ってろ
といいたい。だから、フルっていってるだろ、poli

 それもこれも科学性にこだわって、考古学そのものに自信を持てない姿勢にだって問題がある。キャリア(年数)からすれば、考古学も近代科学(方法論が確立されたところからカウントして)も似たり寄ったりなのだから。 「先輩」はいくらもいる。カネ勘定に追われたことによって早くも発達した簿記だの経済学(政治算術)は1、2世紀早いし、数学は先の勘定のほか、土地の広さを測ったり、建築・設計にせっつかれただろうからもっともっと早い。(オプション価値の発祥はターレスによって始まるなんて説もあり。)poliの言があてにならないなら、ポパーを呼ぼうか。彼によれば、科学より実証主義の方が先輩であることを示しているだろう。そう、実証主義は、厳密には科学ではないのだ。