コルナイ『コルナイ・ヤーノシュ自伝』日本評論社

上は、ハーシュマンの自伝である。コルナイとはプリンストン大学の同僚で、過去に政府への参画した経験をもつことも共通している。そして何よりもその過去を厭うことなく書き記したことも共通項といえる。
 政府への参画というならば、シュンペーターケインズもカレツキもミュルダールなど枚挙にいとまはなかったりする。
 さて、前二者であるが、ハーシュマンは自らが歩んできたその参画と脱退そのものを研究対象とした。翻ってコルナイは、その脱退に逡巡することなく、参画に対する意欲を持ち続けていくことをなおもアピールする鼻息の荒さである。その程度たるや訳者である盛田常夫にやんわりと刺されているくらいあからさまなのだ。思わず笑ってしまった。とはいえ、この自信家ぶりは現行の研究者の一部にみられるような、そんな根拠のないものではない。周囲の政局の毀誉褒貶のなか歩んできた彼の半生そのものが根拠となっているといえる。だからこそ、戦争協力したと決めつけ研究者を糾弾する態度に安易に与することなく、至極冷静にそれを見守る彼のまなざしは、現行の研究者全てに求められるべき望ましき質のものではないだろうか。吉本隆明花田清輝批判にはそういう因子が含まれており、公正を欠いたまま片づけられてしまっているこの国の現状は、そのレベルに程遠いわけだが。それにしても、イムレ・ラカトシュにもそういう疑いがあったというのは、初めて知った。
 後者は、このページで猛烈なレコメンがなされていたので、早速読み始めたのだが、いままで研究者が自らの政府への参画に語ったテクストとして前者や、ミュルダールであったため、読者としては実践と理論の間で揺れる雰囲気に慣れていた観がある。
 しかし、コルナイのそれは先に示したように、
理論も参画もなんでもこいや!!
というノリがビリビリと伝わってくるのである。しかしそういうパーソナリティこそが、東欧の激動に際して共産主義がダメだ、なんて簡単に棄却する指向を雄弁にも批判するのである。
コテの鏡!!コルナイ・ヤーノシュ!う〜む、だからそれは、いいすぎだpoli。
 ちなみに金融工学の泰斗、フィッシャー・ブラックは、企業のなかで自らの経済モデルを構築したということは、先に紹介した評伝に活写されており、前二者の反対側の写像を為しているといえまいか。