折原浩『ウェーバー学のすすめ』未来社

 羽生のウェーバーの資料操作の批判のようなことを行うのは、後世のためには有益なことである。しかしこれをしたことで知的誠実性が蹂躙されただのというのは、単なる編集者のアジとちゃうか??わたしには、そこまで羽生が能天気とは思えない。例えば第4章の註13には、そういう血の通ったものが伝わってくる。(あ、長いので抜粋は、、ナシよっ!!)
 しかしタイトルのアジアジな感じが否めない。ここで折原の上掲書が、編集者にだまされるような、一点突破前面展開的なバカテンポな解釈に鉄槌を下す。ウェーバーの見解まで棄却されることに危惧し、論点を整理することで再評価を行ったのだ。誠実性というのなら、こういうのをさすのだろう。感情を抑えたものだった。ここまではね。
 ここでやめてればよかったのに。この老大家は、橋本努のページで捏造問題となぞられて「再批判」を試みた。
他の岬がボーボー燃えているな、ま、いい見本だ油なんぞ注いでみるか、そらごらん、あんなことになるのだよ。気を付けようねー。
 、、、う〜む。バカか?てめーは。
てめえが一点突破してどーすんだよ!!
 自らの炎上を他の炎上を見せて抑止する。白河時代の松平定信みたいな「おいらのとこが大丈夫ならオーケーオーケー外から分取ってでもしのぎましょう」という政論的なレトリック。自らの中にあなたがみた羽生像を出来させたのだよ。わかっているのかい????
 そもそも折原浩ともあろう御方が、こういうものを訳出する仕事をしているにもかかわらず、なぜ捏造問題のオカズに用いてバッサリ斬るぐらいしなかったのか。がっかりである。
 辟易する。だからこそ、ちゃんといっておかねば。
poliは、クサすれど、棄却はせず!!
なるべくよすね、食わず嫌いは。
いってるじゃござんせんか。コテブロゥだって。