二日目。
積ん読から引っ張り出し、通勤へ。
- 今野浩2005.7『金融工学20年〜20世紀エンジニアの冒険』東洋経済新報社
- この人の本に外れはない。というか、人間が大好きなひとの書くテクストが好物なポリと相性がいいということかもしれないが。他の著作の中でも、1995.5『カーマーカー特許とソフトウェア』中公新書がある。これを読んで2,3年経過したある日、ローレンス・レッシグ2001.3『CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー−』翔泳社が訳出され、目を通したとき、この著作がすぐさま想起したことを今も覚えている。
- レッシグの紹介者である山形浩生はもちろんのこと、レッシグの訳書の刊行に合わせてコンスタントに註解を公開する白田秀彰という法政大学の「鉄人」研究者がいるが、エンジニアとしてのアプローチがあるとすれば、この今野センセーの話なんて聞いてみたいよな〜とつねづね思う。
- あ。↑↑↑上の本について、な〜んも書いていないね。金融工学の舞台裏を前著より詳細に記したもの。線形計画法のアプローチが実はマイナーなやり方だったというのは、今回分かった。
- ま、なによりも目玉なのは、経済学者への批判。経済学内部から以前からでさえ、例えば、フリードマンと並ぶシカゴ学派の領袖、ベッカーをさして、経済学帝国主義とラベリングしたことなどは、前々からの臑の傷であったということ。アラン・ブルームの発言などは、ただの「クレタ島の人々は嘘つきだ、とクレタ島の人はいった」みたいな社会学者のしょ〜もない戯れ言でしかない。社会学帝国主義なんてこともいわれかねませんか?ってことだ。特に日本は。
- 学生を育てずいじめて喜んでいる、という、著者がみた経済学者畑の作法は、確かに肯けないし、著者の師である森口繁一を通して語られるエンジニアのそれのほうが惹かれるものがある。とはいえ、経済学者にだって、マーシャルのような人物もいたわけだし、結局、学ぶ者教える者自身がどうかということであって、エンジニアだから、経済学者だからというものでもないのだろう。某人類学者が考古学者に悪口を浴びせた駄本(こんなものはリンクする必要なし)を既に見ていたこと、ハタケは違えど、大学時代、ただの専門バカの毛がはえたくらいで何を勘違いしているのか、学部生の言動に耳を傾けないアンテナを張れないアホ面さげた院生を見たり、同期のそういう愚痴を聞いてきた分、個人的にそういう思いを強くするのだ。
- エンジニアとしての見方を伝えようと努める自らを語る、読ませる自叙伝だし、優秀なパートナー(ケインズにとってのラムゼーのような)白川浩への痛切なオマージュとなっている。あついです。
- ちなみにスタンレー・ジェボンズ、アーヴィング・フィッシャーはエンジニア的な発想で生き抜いた人たちであったし、ジェボンズにさらに先んじて、効用の視点を感知していたデュピュイに至っては、フランスの土木エンジニアである。蛇足。
- ジュール・デュピュイ2001.10『公共事業と経済学』日本経済評論社
- 栗田啓子1992.12『エンジニア・エコノミスト―フランス公共経済学の成立』東京大学出版会
- 中山伊知郎1979. 『わが道経済学』(学術文庫)講談社→ちっ、あまぞ〜n