あ、いいや、というよりも。

 考古学的常識というほど、第一考古学は、そんな頑迷なのか?そもそも、、第一考古学って?、いや、これは後述。


一 部分的なる遺跡とは  自分がここで述べようとする、部分的なる遺跡と云ふ言葉にに就て、少し説明を加へて置く必要がある。 一つの遺跡が旧住居地の全部を指してゐる場合には、それは遺跡としては一般的なものである。即ち、一つの包含地、貝塚等は、今日に知り得る住居地域の全部的なものであって、一貝塚の一部分に限つて居住がなされた証拠も挙げ得ない場合も実際には多いし、又その領域を遥に越えて、一包含地が旧住居地地域の一部分しか相当しないと考へる術も、普通なばいいには存在しない。然るに一方では、段々遺跡の調査が緻密になつてゆくにつれて、その特別な構造や状態が研究の対象になり出してきた。人骨の埋葬状態や、包含地下層に於ける竪穴、色々な居住の為の設備等である。これ等はその文化的意義の上では、すこぶる価値の高いものであるが、遺跡としては全部的な領域で示してゐるものではない。故に今これ等を一括して、私は部分的なる遺跡と云ふ言葉で呼ぶ事にする。
 而してこれを遺跡として意義づけるものは、前述遺跡の定義中の、空間的なる位置を指しその不可動的特性を有する事と、立体的歴史的な構成を持つてゐると云ふのに当てはまる為である。
(中谷治宇二郎1943「第三章 部分的なる遺跡」『校訂 日本石器時代提要甲鳥書林 pp.137-138 ll.5-13, ll.1-3)
 後年において、遺構の定義付けとして引かれることがしばしばあるくだんの中谷の説明である。これは、同時に遺跡と遺構の境界を扱った思索を指し示すテクストといえる。そもそも、この本の第一章のタイトル自体、"遺跡汎論"と称し、濱田耕作『通論考古学』における遺跡・遺物観の再検討を行なっている。

二 遺跡と遺物  遺跡自身の概念を追求する以前に、今遺跡遺物と二語並べて、その内容を比較して見ることとする。遺物は今日に遺存された物質である。而してその研究の目的が文化を知ると云ふのであれば、ここに文化価値と云ふもので選択されてゐるであろう事が考へられる。然るに一方遺跡は、濱田博士に依ても「遺跡とは形體大なる遺物、若しくは遺物の集団にして運搬に困難なるもの、或は遺物存在の痕跡を指すことあり」(『通論考古学』第三七頁、遺物と遺跡)とある如く、単にその痕跡を指す場合がある。痕跡が物質であるか否かは疑問の生ずる所であつて、砂上に印せられた足跡は、砂が物質だからとてすぐ物質では通らない。生乾の壁に指跡をつけてこの指跡は物質なりや否やと尋ねては、丁度掌を打つてどちらが音を出したかと云ふ様な、禅問答めいたである。然るに遺跡の概念中には、如何に広義に解しても、物質なりと云ひ切れないものまでも含まれてゐるのである。
(中谷治宇二郎1943「第一章 遺跡汎論」『校訂 日本石器時代提要』甲鳥書林 pp.88 ll.1-11)
さらに、突っ込んで、、、、

 遺物が集積されて遺跡を形作つてゐると云つた。遺物は一々の物體を指してゐる。この場合遺跡の概念を形成してゐるものは何か。それは遺跡の概念をそのままに、持つて来た空間的な地点(又は場所)と云ふ事である。一つ一つを取出して了へばそれは遺物である。然しこれ等の遺物が自然のままの状態で土中に埋没されて居れば、その相互関係、即ち立體的な存在地点が遺跡を構成してゐる事となる。一旦人の手が加はつて、この相互関係を崩して了へば、その地点に於ける遺跡は永久に無くなつてしまふ、残るのはただ遺物のみとなる。立體的な相互関係は、後日再現して実証することが不可能であるからである。
(中谷治宇二郎1943「第一章 遺跡汎論 三 遺跡の概念」『校訂 日本石器時代提要』甲鳥書林 pp.91 ll.5-11)
 コンテクストを導入する。これが戦前期の思索にて行われているのである。もっとも、マルセル・モースとやり取りするような変わり種の言説ではあるのだが。しかし、ここまで禁欲的にも、遺物への狂おしい我執を脇に置き、自前のアタマを練りネリしている概説書は、戦後以降、お目にかかれないのが実情であろう。