見田宗介2008『まなざしの地獄』河出書房新社

ヴィルノ、パオロ2004『マルチチュードの文法』月曜社

"見入る"のも、過ぎたるは毒! になってしまっている。解放という自由の難しさから逃避するために見入っているなら、ほんと毒だね。単系への収束なんて然り。。ひつこい、、、、 ランシエールは上の自著の方が、「アルチュセールせんせいがおっしゃるには、…

ランシエール、ジャック2013『解放された観客』法政大学出版局

ドゥボール、ギー2000『スペクタクルの社会についての注解』現代思潮新社

ドゥボール、ギー2003『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫

松田政男2013『風景の死滅 増補新版』航思社

2013/10/26 戦後の日本とフランスにおける埋蔵文化財保護行政『連続講演会<日仏における考古学と埋蔵文化財>』於:日仏会館(恵比寿)

梅原末治や金関恕の丸パクリか!!とか言わないように。モノとヒトの関係の結び方。これが、この陳腐に響く染み付いた生活観のようなものが、日本考古学の関心の中心にあって、また先の単系の進展観の誘惑に動揺することなく分析するための基底たるものとし…

ちなみに。(もういるのかもしれないが、)

LINEはフォネー(声)のre-gainである、という発想がもたげてくるというのなら、安易な妄想であろう。つの丸、というかマキバオーのスキンヘッドみたいなアイコンや写真が飛び交い、明らかに「見る」ことを誘っている営為ではないか。単に2chのlegacy化にみた…

そもそも生業に例えるならば、、

享受者のいないシステムを開発するSEなんて、crazyなアレであろう。違和感の何者でもないのである。

、、したがって。

データベース化と目することのいい加減さの、そのいい加減たるところは、使い手と享受者が未分離、というよりもその発想には使い手しか存在しないのである。

DBの話に戻れば、

この数年、ビッグデータというコトバが独り歩きしている。ここでnoSQLというタームが同時に飛び交い、これを差してRDBMSの後継などと書き立てる向きがあるが、結局のところ、これも単系的発想の帰結に他ならない。升目から層へカタチを換えただけのことであ…

しかし。

これは2つの別箇の流れを一緒くたにしているという視点もまたある。先の複数性であらわれる群集墳のあり方は、高塚古墳の単独性、あるいは惑星+衛星様のユニット構成の推移からみれば、葬制の世俗化が進んだもの、と見、翻って寺院の建造ひいては大仏の建…

考古学を例に。。。

これは周知のことであろうが、横穴古墳、積石塚なるものの特徴として、単独で在ることは皆無ということがある。いっぽう、これに前駆する段階の高塚古墳と称されるものは、単独、または陪塚という、対象よりも小型の複数の墳墓が付属するに留まる。 この背景…

東浩紀2001『動物化するポストモダン』講談社現代新書

データベース化というプロセスに「推移する」かのような説明を目にした段階で、本を閉じて、屋根裏に投げ込んだ。も〜〜こういった単系的発想には辟易していたからである。単なるブレイク処理だろ、これ。。

(本当はフハー)

ネコという種には、ドラマがある。ただでさえ。そもそも、poli個人、鼻の下の、あのモフっとしたネコ殿の面体自体、思い出すと失礼ながら失笑。。なんなんだあのヒゲの生え方とか!!で。去勢なんて人間様の事情なんてもんが加われば、ますます混迷を極める…

しかし。

この拮抗の劈開をもたらすのは、裡なる自己の否定か裡なる自己の肯定か、はたまた両者を看たうえでの裡なる自己の止揚、か? この問いは、どうしても立ち塞がっている。何年たっても。。。。ああ。そうそう。行政内研究者などという開き直りは、解決でも何で…

嗚呼、、、poliなんぞ思いつきだ。。。。

ステレオタイプで聞き飽きた感がする。だが、正しい。 過日、検見塚を行き交う人々を思い記したナイーブなpoliの言なんぞに比べ、、 懇切で直球でいまいましいくらい。だが正しい!!! 説明を厭うpoliの怠慢が際立つ。。うう。

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。 〜前掲のブログ記事、「失望の検見塚、希望の検見塚」より 人々と入れ違いに入ってくる別の人々、この変化。そしてもはやこれを所与とする事態は、枚挙に暇がない。これも、要する…

ああ、まあ。そりゃ。ね。

そういうトコロですよ。そこは。。 彼らのように経済活動を模索する気があるというのことなのだろうか。あんなにそういうことを毛嫌いしてきた畑の面々が、なんでこんな選択をするのか。甚だ疑問なんですけど。 岡本俊朗たちによって、とっちめられたそこの…

久しぶりに目にする。このコトバ、、

脚本でなくて、自身から発露したコトバ、だったわけですね。。。 中途半端な正義は一番の悪。。。 〜南波次郎こと松本人志 サンデルを褒めそやすなら、こっちもアリなんでね〜の、と常々思っていた、至言、である。

細田衛士1999『グッズとバッズの経済学』(第2版 2012)東洋経済新報社

仮に動産として、その先に生じる新たな言分けを、、、環境経済学は議論していたりする。

リンチ,ケヴィン1994『廃棄の文化誌』工作舎(新装版 2008)

ところで、貝塚研究のヒト、こういうのは、読まないんすかね???新装版も出たことだし。廃棄されたモノ、廃棄したヒトの所作。。

村田六郎太2013『加曽利貝塚』同成社

貝塚の成分を説明するような指向が明解な記述は、珍しい。これだけ貝塚が調査されてきて、やっと一般化ってのは、マズイ気がするけどな。。。

、、しかし・・・

これが、 人工遺物/自然遺物の区分けの端緒となったテクストのひとつ である以上、未だその価値を有しているとは思うのだが。。。ま、↓↓これ↓↓が出たしね。ここまで示さないと何を言ってるか分からないもんかいな?。。。ということで。

坪井正五郎1886「東京近傍貝塚総論」『東京地学協会報告』8-4(『日本考古学選集2 坪井正五郎集 上』(1971. 築地書館)pp.106-125)

東京人類学会雑誌3-29(1888)に「貝塚とは何であるか」、として再録されたessayである。近年では、北区の中里貝塚調査の際、一時引かれたことがあったかもしれない。だが。遺物・遺構論のcontextで省みられたことは? な〜い!!

、、しかも

あーあーあー、、伊皿木さんが引用しているように、、 貝塚を例に出しちゃったよ。 、、最もそういう話題の例示には向かないもの混沌、モンスター、そんなヤツ!!だなんて、なんで分からないかね、、、、、、、こういうヒトには、そして伊皿木さんの違和感…

最近の定理。

定理を語るなかで最も新しい、というイミで最新。ということで。ただ、新しさはないし。そこにそんなに拘泥することは 身には毒だよなあ、 と、、 、 、 、

稲田孝司1986「縄文文化の形成」『岩波講座日本考古学』6 変化と画期

かつて、この文中に入っていて、草創期から堅果類の割合の上がる過程をイメージすることができなかったのだが、上記の細石器−中石器観があれば、幾分スムースに近づけるのかと。。。

Clarke,David L.1976"Mesolithic Europe:The Economic Basis ",1979"Analytical Archaeologist"ACADEMIC PRESS

Binfordと並ぶ、プロセス考古学の領袖と我が国で紹介され、Hodderがこの下から発したというキーマン、Clarkeのessayである。その本文(本書では、pp.216-217)の見開き。こういう編集を意図的にしたのだろう。。我が国の細石器の復原例は、この216ページのほ…

Badiou,Alain2007"Being And Event",Continuum

バディウが??ま。無限小からライプニッツを経て、ここに行き着くみちくさも。。また。。。