今更ながら、、、

 引用したとき、なんとなく語用に違和感を感じていたのだが、遺跡考古学。文脈からすると、森本は意図的に記している。対置するのは、青銅器など遺物単体と向き合うのを主体とする考古学的思潮。とある本的にみれば、森本は、その背後に梅原末治を見据えていたのだろうか、、、いずれにせよ、この遺跡の考古学というのは、現行でさえ、分布論ともども、またまだ進展があり得るのではないだろうか。。。紛れもなくこれもまた進行形であるはずの課題にほかならない。

どっかで目にするような下りが、、、、


 遺跡考古学者の仕事は、遥かに軍隊の仕事よりも容易である。戦に於ては、敵は縷々「カモフラージ」によつて其の正体を紛はすに反して、考古学者の場合に於ける遺跡は、全く正直で「カモフラージ」の為悩される事がない。よしや何等かの事情によつて曖昧であり、何等かの組合せによつて紛乱していても、其の処理の正しさを得れば、目的はたやすく達成し得られる。且つ「闘争」の為ではなく「ヒユマニテイ」の為にする事によつて、軍人よりも考古学者は遥かに幸福である。
〜「空からの考古学」より。前掲書 pp.6 ll.10-15
 fischeさんのコメントと相俟って、、当時の背景を意識した森本の付言をみる。、、う〜む、原子力の平和利用云々の既視感がそこはかとなく(おい)【参考1】【参考2】
 もちろん、有効性の評価を曇らせるかといえば、それとは別箇ではあるのだが、、、、、C14だのフィッショントラック法だのというものが今や傍らにある点では、この戸惑いは既に胚胎し進行形なもの、と言わざるをえない、、、、嗚呼。

境目の地、三浦半島。

 それからもう一つ。里見vs北条という視点からすれば、三浦半島というものは、当時境目たる場であったことを表している。まあ、源平期も同様な状況にあり、その当時は千葉vs三浦。和田義盛の父である杉本義宗は、嫡子候補となるべき長子でありながら、千葉氏領内の下総の地にて戦死しており、次男である三浦義澄が惣領となったのはそういう背景がある。

宮下秀樹2013『センゴク一統記』6 講談社

 センゴク一統記にて、山崎の戦いの前哨戦としての禁令の"発布合戦"が活写されていた。この延長線上で最宝寺中世文書をみれば、秀吉と、北条を他者の岬から臨むどさくさ紛れな里見の、2種の禁令が並ぶというのが、啓発的であろう。惣無事令と相俟ってこれは、、、、、。

横須賀の文化財展―ツナグ・ツタワル・オクル―

 3/1(日)まで。先日、定期検査の合間に、拝見。。富岡製糸場のレンガと、衣笠城址本丸に位置する大善寺毘沙門天立像、そして久里浜中学校内調査の舟型石列内の人骨が"三枚看板"であろう。が。poliがおおお!と目を引いたのは、古文書のほうである。最宝寺中世文書と永島家文書。

鳥瞰する考古学。。。

 テクテクと歩いてみるだけでも、開かれていくことが多々あるが、鳥瞰するともなれば、なおのこと。ましてや森本の時世には考えられなかった蜘蛛のような例のヤツなんて、活躍しそうな、、、
 航空写真というものは何も、発掘、出来上がりです!、、なためだけにあるのではなかったと思うのだが、、、、
 まあ、貝塚では前々から、ちゃんと存在しているのですが。拡散は、余り、、なのですよね。。。。

森本六爾1931「飛行機と考古学」『考古学』2巻2号 東京考古学会

 先頃、不当な破壊が行われた、天白元屋敷遺跡の再検討がfischeさんのページにて、展開中であるが、この記事を拝読させて頂いていて想起したのが、タイトルの論文。ちゃんと読み返さないとなあ、と。